絵や文などは「著作権」というものがあるところが共通しているが、画家にとって、自分が描いた絵(作品)というのは、どういうものなんだろうと思った。
文章は言葉だからどんどん印刷されて伝えられるのみであり、自分が書いた文が手元からなくなるわけではないが、絵画というのは、そのものが自分の手元から離れて、誰かの手元に渡っていくわけだ。だから、もうずっとその絵に会えないかもしれない。
しかし、自分が気に入って上手に描けた絵こそ、自分の手元に残すのではなく、他人に渡してそこで評価してもらうなり楽しんでもらうなりしなければ、その絵の存在価値が生まれない。画家は自らが描いた絵とは別れるという運命にあるといえる。
画家というのは、自分の絵の行き先を知っているものなのだろうか?
どこか遠くの美術館に展示されているのを知っていたら、自分の絵に会いに行くなんてこともあるのかな?
どこかでその作家の展覧会でも開催されると、ばらばらになっていた作品の多くが会場に集められたりするので、そこで初めて作品同士が一堂に会することになったりする。それは不思議なことだ。画家が生きていれば、たくさんのわが作品との再会に感無量かもしれない。大昔の画家でもうこの世にいない場合も、いままで時間差を持って描かれて人手に渡ったためにひとまとまりになったことない絵たちが、今や主はいないもののそこに集められて、人々がそこに画家の魂を感じたりするのであろう。
絵は、模写や複製画や写真や印刷物などになって、多くの人の目に触れることもできるから、そういうもので楽しむこともできるが、やはり本物は格別だ。
絵は高価なものであるが、それは当然のことである。
絵を描くのにはかなりの時間を要するだろう。単純にパートタイマーの時給に換算したって1~2日で、1万円くらいにはなるわけだ。数ヶ月もかかって描いた絵が何百万もするのは当然だといえる。
画家の卵にとって、絵描きになるか、絵の先生になるか、というのはやはり作品にどれだけ力を尽くすことができるかということで、大きな問題となるだろう。
文章は言葉だからどんどん印刷されて伝えられるのみであり、自分が書いた文が手元からなくなるわけではないが、絵画というのは、そのものが自分の手元から離れて、誰かの手元に渡っていくわけだ。だから、もうずっとその絵に会えないかもしれない。
しかし、自分が気に入って上手に描けた絵こそ、自分の手元に残すのではなく、他人に渡してそこで評価してもらうなり楽しんでもらうなりしなければ、その絵の存在価値が生まれない。画家は自らが描いた絵とは別れるという運命にあるといえる。
画家というのは、自分の絵の行き先を知っているものなのだろうか?
どこか遠くの美術館に展示されているのを知っていたら、自分の絵に会いに行くなんてこともあるのかな?
どこかでその作家の展覧会でも開催されると、ばらばらになっていた作品の多くが会場に集められたりするので、そこで初めて作品同士が一堂に会することになったりする。それは不思議なことだ。画家が生きていれば、たくさんのわが作品との再会に感無量かもしれない。大昔の画家でもうこの世にいない場合も、いままで時間差を持って描かれて人手に渡ったためにひとまとまりになったことない絵たちが、今や主はいないもののそこに集められて、人々がそこに画家の魂を感じたりするのであろう。
絵は、模写や複製画や写真や印刷物などになって、多くの人の目に触れることもできるから、そういうもので楽しむこともできるが、やはり本物は格別だ。
絵は高価なものであるが、それは当然のことである。
絵を描くのにはかなりの時間を要するだろう。単純にパートタイマーの時給に換算したって1~2日で、1万円くらいにはなるわけだ。数ヶ月もかかって描いた絵が何百万もするのは当然だといえる。
画家の卵にとって、絵描きになるか、絵の先生になるか、というのはやはり作品にどれだけ力を尽くすことができるかということで、大きな問題となるだろう。