3月4日から7日まで、パソコンのない時間をすごしていた。
そうしてみて、いかにパソコンが日常生活に欠かせないものとなっているかがわかった。
大部分は、ブログを書いたり読んだりして油を売っている私であるが、いろいろなことを調べるのに使っている場合が多いことに気付く。
だいたい、パソコンが不具合を起こしたときも、パソコンで「画面がチカチカする」などと入れて故障原因や対処法を検索していたのだった。
そのほかにも、ちょっと車で知らない店に行こうと思った時、道路や駐車場の様子を知るために、グーグルマップで航空写真を見たりできるのもすごく役に立つし、旅行に行くための交通手段やレストランなどの情報を得るのにもパソコンが便利だ。また、夕飯のメニューのレシピなんかも料理の本を買うこともなく知ることができる。
ニュースもパソコンで読んでいた。
そんなパソコンがなくなると、とたんに時間の使い方を持て余してしまった。
そこで、珍しく新聞を読んだりした。
それに本も読んだ。荻原浩の「オロロ畑でつかまえて」を読んだ。
村上龍の「共生虫」を読み始めた。
そうだ、きっとパソコンがなくなると、私は「読書」をするようになるに違いない。
しかし、ものが書けないということでは、何か非常に物足りないものを感じた。頭が整理できないのだ。大学ノートを用意して、昔のように日記を書こうかと思ったが、そこに物体としての文字を残すことが不安でもあった。また、文字を書いたり消したりすることはかなり面倒そうである。パソコンのように打ったり削除したり、速やかにできないわけだ。手で字を書くということは、今でも自分にできるものだろうか。
それから、ブログっていうのは、人に読んでもらうことを想定しているのだ。それは、ひそかに自分だけで書いている日記とはあきらかに動機が違うようだ。いつしか読んでもらうことを生きがいにするようになったのかもしれない。
それで、パソコンの無い間、私は自分のために手で日記を書いたりはしなかった。
携帯でブログをやろうかと思って説明書を出してきたが、結局わからなかった。投稿の仕方だけは知っているのだが、携帯で自分のブログを見れないのに、送る気にはなれなかった。また、携帯でインターネットを使うとどれだけ使用料を取られるのか、たぶん私はパケ放題なんかには設定してないはずなのだった。
そんなわけで、それじゃあ、ネットカフェにでも行ってみようかと思ったのだが、これも入口の看板など偵察して見たところ、ブース席というのはたぶん個室のようになっているのだろうが、それは自由席の倍くらいの値段であり、自由席というのは、ただパソコンが並んでいるような感じだった。それほど高い値段ではなさそうだったが、そこで落ち着いてブログなど書けるかどうかわかないなあと思ったりし、結局入ることはなかった。
ネットカフェに入るのは、ガソリンスタンドを初めて使うくらいの緊張感なんじゃないかと思う。ま、使ってみればガソリンスタンドと同じでなんてことないんだろう。
そうこうするうちに週末になり、電気屋に行く時間が取れたので、さっそくパソコンを買った。夫は電気製品大好き人間なので、すべておまかせで、わたしはついていっただけだ。
以前のも東芝のdynabookだったが、今度もまたそれである。ノートは東芝がいいとか言ってる。いつしかWindows7というものになっていたらしい。容量も以前のものよりずっと多く、速度も速い。形はちょっと横長になった。横は長いが画面の高さがないので、小さくなったような気もする。
パソコンが開けない間は、自分のブログもはるか知らない世界に行ってしまったようだった。
このままパソコンなしの生活になったらどうなるんだろうと思った。自分の知らない世界で自分の書いたブログが誰かに読まれることはあっても、それは落し物のようにずっとそこに放置されているのかもしれない。ときどきずっと放置されているブログがあるけど、そういうのはパソコンが壊れたのをきっかけにやめちゃったのかもしれない。
ブログで知り合った人たちとは一度も会ったことがないし、これからも会うことはないのかもしれないが、このまま交流が途絶えてしまうというのは、何かすごくさみしい気がした。
だから、ブログはずっと続けるんだろう。
そうだ、きっとブログはもはや自分にとってやめられないものとなっているのだ。
一方、ブログでやりとりさせていただくうちに、それがとても心強い友のようになり、心のよりどころになってしまっているわけだけど、それを心のよりどころにしている代わりに、実際に身近にいる友人や知人をあんまり大切にしてない自分にも気がついた。
インターネットが切れたらもう何のつながりもなくなってしまう人たちだけを頼りに生きているってのは、やっぱりよくないのかもしれない。
でも、それはけっしてバーチャル世界ではないことは事実である。
何を書いているのかわからなくなってきた。
実は、書いている途中で人が来て数時間中断したので、ますます支離滅裂になってしまった。
パソコンがないと、夜更かしもせず、大体12時ころには寝た。
きっと新聞を読んだり、本を読んだりするし、テレビも見るようになるのだろう。
身近な人間を心のよりどころにするのかもしれない。情報も身近な人から聞くようになるのかもしれない。
それはそれでいいことかもしれない。
でも、やっぱりパソコンがあるのだから、パソコンの世界も大いに活用したいと思う。
これからもよろしく!
そうしてみて、いかにパソコンが日常生活に欠かせないものとなっているかがわかった。
大部分は、ブログを書いたり読んだりして油を売っている私であるが、いろいろなことを調べるのに使っている場合が多いことに気付く。
だいたい、パソコンが不具合を起こしたときも、パソコンで「画面がチカチカする」などと入れて故障原因や対処法を検索していたのだった。
そのほかにも、ちょっと車で知らない店に行こうと思った時、道路や駐車場の様子を知るために、グーグルマップで航空写真を見たりできるのもすごく役に立つし、旅行に行くための交通手段やレストランなどの情報を得るのにもパソコンが便利だ。また、夕飯のメニューのレシピなんかも料理の本を買うこともなく知ることができる。
ニュースもパソコンで読んでいた。
そんなパソコンがなくなると、とたんに時間の使い方を持て余してしまった。
そこで、珍しく新聞を読んだりした。
それに本も読んだ。荻原浩の「オロロ畑でつかまえて」を読んだ。
村上龍の「共生虫」を読み始めた。
そうだ、きっとパソコンがなくなると、私は「読書」をするようになるに違いない。
しかし、ものが書けないということでは、何か非常に物足りないものを感じた。頭が整理できないのだ。大学ノートを用意して、昔のように日記を書こうかと思ったが、そこに物体としての文字を残すことが不安でもあった。また、文字を書いたり消したりすることはかなり面倒そうである。パソコンのように打ったり削除したり、速やかにできないわけだ。手で字を書くということは、今でも自分にできるものだろうか。
それから、ブログっていうのは、人に読んでもらうことを想定しているのだ。それは、ひそかに自分だけで書いている日記とはあきらかに動機が違うようだ。いつしか読んでもらうことを生きがいにするようになったのかもしれない。
それで、パソコンの無い間、私は自分のために手で日記を書いたりはしなかった。
携帯でブログをやろうかと思って説明書を出してきたが、結局わからなかった。投稿の仕方だけは知っているのだが、携帯で自分のブログを見れないのに、送る気にはなれなかった。また、携帯でインターネットを使うとどれだけ使用料を取られるのか、たぶん私はパケ放題なんかには設定してないはずなのだった。
そんなわけで、それじゃあ、ネットカフェにでも行ってみようかと思ったのだが、これも入口の看板など偵察して見たところ、ブース席というのはたぶん個室のようになっているのだろうが、それは自由席の倍くらいの値段であり、自由席というのは、ただパソコンが並んでいるような感じだった。それほど高い値段ではなさそうだったが、そこで落ち着いてブログなど書けるかどうかわかないなあと思ったりし、結局入ることはなかった。
ネットカフェに入るのは、ガソリンスタンドを初めて使うくらいの緊張感なんじゃないかと思う。ま、使ってみればガソリンスタンドと同じでなんてことないんだろう。
そうこうするうちに週末になり、電気屋に行く時間が取れたので、さっそくパソコンを買った。夫は電気製品大好き人間なので、すべておまかせで、わたしはついていっただけだ。
以前のも東芝のdynabookだったが、今度もまたそれである。ノートは東芝がいいとか言ってる。いつしかWindows7というものになっていたらしい。容量も以前のものよりずっと多く、速度も速い。形はちょっと横長になった。横は長いが画面の高さがないので、小さくなったような気もする。
パソコンが開けない間は、自分のブログもはるか知らない世界に行ってしまったようだった。
このままパソコンなしの生活になったらどうなるんだろうと思った。自分の知らない世界で自分の書いたブログが誰かに読まれることはあっても、それは落し物のようにずっとそこに放置されているのかもしれない。ときどきずっと放置されているブログがあるけど、そういうのはパソコンが壊れたのをきっかけにやめちゃったのかもしれない。
ブログで知り合った人たちとは一度も会ったことがないし、これからも会うことはないのかもしれないが、このまま交流が途絶えてしまうというのは、何かすごくさみしい気がした。
だから、ブログはずっと続けるんだろう。
そうだ、きっとブログはもはや自分にとってやめられないものとなっているのだ。
一方、ブログでやりとりさせていただくうちに、それがとても心強い友のようになり、心のよりどころになってしまっているわけだけど、それを心のよりどころにしている代わりに、実際に身近にいる友人や知人をあんまり大切にしてない自分にも気がついた。
インターネットが切れたらもう何のつながりもなくなってしまう人たちだけを頼りに生きているってのは、やっぱりよくないのかもしれない。
でも、それはけっしてバーチャル世界ではないことは事実である。
何を書いているのかわからなくなってきた。
実は、書いている途中で人が来て数時間中断したので、ますます支離滅裂になってしまった。
パソコンがないと、夜更かしもせず、大体12時ころには寝た。
きっと新聞を読んだり、本を読んだりするし、テレビも見るようになるのだろう。
身近な人間を心のよりどころにするのかもしれない。情報も身近な人から聞くようになるのかもしれない。
それはそれでいいことかもしれない。
でも、やっぱりパソコンがあるのだから、パソコンの世界も大いに活用したいと思う。
これからもよろしく!
