このあいだ、長年使っていた行平鍋(アルミの片手鍋)の持ち手が壊れてしまった。
30年以上使っていたかもしれない。持ち手は木でできていて、鍋の部分のアルミが持ち手の部分まで筒状に伸びており、木はそこに差し込まれているという感じだ。
その木が折れたのかと思ったら、アルミの筒の部分が劣化して、ぐしゃっと折れ曲がってしまったのである。
それを見たとき、物体というものはある日急にダメになるものなんだ、と思った。
それまで、老朽化していてもなんとか持ちこたえていたわけだが、やはり永遠に使えるわけではなく、ある時にそれは壊れるのである。
それは、人間の身体も同じなのだろう。どこかが壊れたらそれでおしまい。
脳とか肺とか腎臓とか、人によって、身体のどの部分が一番先に劣化するか不調をきたすかわからない、そこが治療で治ればよいのだが、治らなかったり、いきなり壊れたりすることがあるのだ。それは怖いなと思った。
そうして、行平鍋はそのうちに捨てようと思って台所の片隅に放り投げてあった。鍋の部分だけベランダに持っていって受け皿にするという使い道もあるけど、鍋の部分もかなり汚れがこびりついているから、再利用するにはきれいに磨かねば・・・と思っていた。
ところが、昨日ふと見ると、鍋が見当たらないのである。夫に聞くと捨てたという。金属の収集日っていつだったのかな?「どうせ捨てるものだろう」と夫が言った。たしかにそうではある。
しかし、捨てる前に、もう一度しげしげと壊れた部分を観察し、そして「今まで働いてくれてありがとう」と鍋にお礼を言って別れればよかったなあと心残りな感じがした。まさか、夫が鍋にお礼を言ってくれたりはしてないだろうし。
そういえば、電化製品なども、いざ壊れて捨てるときになって名残惜しさを感じることが多い。そんなことなら日々大切に使っていればよかったのに、何も考えないで使っているのだ。
2~3か月前にプリンターも買い替えたけど、粗大ごみに出すときになって急にかわいそうになったりする。でも、プリンターは夫の所有物という感覚なので、記念撮影などもしないまま、廃棄された。
・・・
実家の母は、いまだに30年以上も昔の二槽式洗濯機を使っているが、母にしてみれば、この洗濯機の命があるかぎり使い続けたいと思っているようである。
そうして、そういう電化製品の命と自分の命の共通性を感じているのかもしれない。古いものになったけれど、まだ働くことができるのだから、役にたつうちに捨てるなんてことはできないのだと思う。
私たちは、二槽式なんか不便だから全自動に買い替えなよと母に言うけれど、母は断固として洗濯機を買い替える気はないのだ。
そんな気持ちもわかるような気がする。