プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

堀本律雄

2017-02-05 10:05:01 | 日記
1961年

別所コーチにウインクしながら堀本はダッグアウトを出ていった。九回裏、あと1イニング投げれば九ヶ月ぶりのシャットアウト勝ちが待っている。中盤ごろはちょっと不安だった別所コーチも「三、四、五番か」とひとりごとをいっただけに別にアドバイスを与えない。広島を完封した堀本はナインに抱きかかえられるようにしてダッグアウトへ。そこにはまた選手のさし出した手がいっぱいヒーローを待っていた。「久しぶりで気持ちがいい。スピードがあったのがよかったんだよ。そうだな、去年のいいときのスピードにもどっているようだ」広島の打球はこのスピードに押えられて、左翼方面にとんだのは大和田の三遊間安打を含めて2本。青田昇氏は「広島の打者はひっぱろうとする無策なバッティングだったが、あれだけのスピードならもう心配はいらない」とほめちぎっていた。だが昨年九月十四日の対中日戦以来久しぶりの完投シャットアウトにもかかわらず、堀本はまだまだ注文があるようだ。「内角高目いっぱいをついてから外角へ遠いストレートを投げた。このタイミングはよかったがどうもカーブがいかんな。5本のヒットのうち3本がカーブ。みんな真ん中へ集まってしまった。あれが外角へ切れなくちゃ本物とはいえんよ」暗いせまい廊下を出口の方へ足ばやに歩きながら自分のピッチングを反省していた。「九回はなんともなかったけど六回ごろがつらかった。なにぶん完投能力のない新人投手ですからね」ことしシーズン・オフにつくった背広がアメリカ遠征からかえってみると、きつくてはいらないくらい太っていた。当然調子はわるい。一度自分から多摩川(二軍)におちて練習した苦労がやっと報われた。「昨年にくらべて不振がつづいたのでいろいろといやなこともいわれたが、これでふっとばすぜ」大きなバス・タオルを巻きつけた堀本は、トレード・マークの大きいメダマをぎょろりとむいて笑いだした。エースのいない巨人にエース復活だ。
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ウィルソン

2017-02-05 09:34:28 | 日記
1963年

まるくとび出した目、顔の中央にデンとすわっている大きな鼻。ホオの肉がちょっとたるんでいるところもヒチコックに似ているといわれている。「冗談じゃない。もっともっとぼくは若い。八回の打球を見てくれたか。すごい当りだったろう」打った球はヒザ元のシンカーだっだそうだ。「2ストライクをとられたから、くさいボールは打つつもりだったが、ストライクだな。もしあの球を見送ってごらん。チーフ・アンパイアはきっとこれだよ」右手の親指を高く差し上げてストラックアウトのゼスチャアをしてみせた。2ストライク後安打を打つのがウィルソンのお家芸だ。「実にいい選球眼をしている」と岩本章良氏はいう。「数はおぼえていないが、左投手からはアメリカでもずいぶんホームランしている。右投手の比率からいえば、きっと左からの方がいいはずだ。右だって左だって、ホーム・プレートの上を通る球を打てば同じじゃないか」三十七歳のウィルソンをささえているのはこの自信だ。昭和十七年、D級のオーエンスポロでプロのユニホームを着てから二十一年間の野球生活。その間には十年も大リーグの経験をしている。体力的なことをいわれるとウィルソンはいつも相手にくってかかる。「オレの足がおそいって?ウソだ。肩だって強いぞ」西鉄での生活は楽しくってしかたないが、不満といえば外野にあまり使ってくれないことだそうだ。「オレの足や肩に不安を持っているのかな。なれない一塁より外野の方がずっと力が出せると思うのだけど・・・」ロイやバーマと違って日本語は全然わからないが「野球はインターナショナル。プレーをしている以上なんの不自由もない」そうだ。
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大羽進

2017-02-05 09:23:39 | 日記
1961年

試合前巨人ベンチで川上監督と別所コーチが「大羽が、リードすれば大石のリリーフとくるんだろう。しかしそうはいかんぜ」といっていたが、大石どころか、大羽に押えられた。「田中さんのリードのまま投げただけですよ」と声がはずむ大羽、試合中は大羽よりも田中の方が緊張していた。「大羽は若いからこんなせった試合になると気を使って、オレの方がやせるよ。それにしてもきょうの大羽はよかった。五、六回まで速い球を投げ、後半はカーブに切り替えたが、それがみんな低目によくきまっていたよ」試合後はまるで自分がヒーローになったようにごきげん。「巨人は気が抜けませんからね、こわくて・・・。長島、高林さんを警戒したんです。長島さんにはスロー・カーブばかり」といっていた。エースの大石と同期生で大の仲良し。二人とも板東を中日にとられてストーブ・リーグも終わりかかったころ、あわててスカウトが走りまわってとった選手だ。大石は立大、大羽は明大進学を希望、大羽は明大の練習にまで参加している。ちょうど慶明戦前さっそく島岡監督が巽投手(現国鉄)攻略の練習台にしたところ練習どころか、明大が高校生にひねられてしまった。そのウワサを聞きつけて武沢前マネジャーがスカウトした。「大石と入団したとき球団で大羽とどちらが先にのびるか」と楽しみにしていたが、大石は二年目でエースにのしあがったのに、大羽はパッとしない。「大石君と口をききたくなるほど妙な気持ちでした。おいてきぼりを食うようで。ことしは絶対に追いつこうとキャンプでも練習したんですよ」がんばったかいがあったというものだ。サウスポーのいない広島は大羽の成長を首をツルのように長くして待っている。
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緋本祥好

2017-02-05 09:09:50 | 日記
1961年

ダッグアウト裏の通路をバットをかかえて一目散。階段を二、三段ずつピョン、ピョンとびあがって大きな目を見ひらき「ああ、どうしようかと思った」とまだ心臓がドキドキしているようす。「ぼくはいつも代走ばかりだから藤本がヒットを打ったとき、これは代走だなと思った。ところが監督からミケンズの落ちる球をねらえといわれあわてた」という。しかしみごとにサヨナラ安打した。打ったのは内角から真中にはいるカーブ。「1-1のあとから振りしたのがカーブ、そのつぎファウルしたのが同じようなカーブ、ぼくの低いかまえをみて低目をねらってると思ったんでしょう。打ったカーブはやや高目でした」松岡、河津ら専門の代打者がいるのに走る専門の緋本を選らんで当てた水原監督はグッとアゴを引きしめた例のポーズで「緋本は遅いボールに強い。だからいつか使うチャンスがあるかと思って待機させておいたんだ」といっていた。佐々木信也氏によると「ミケンズはストレートは速いがカーブは遅い。それに12回投げて球が高目に浮いていた」そうだから、この殊勲打の裏には水原監督の人選のうまさもあったといえる。昨年暮れ広島を整理された緋本を拾ったのが水原監督。同監督の頭の中には広島の主軸打者として活躍したころの緋本のバッティングが印象に残っている。ことしの春のキャンプではじめは五番打者に予定していたほどだった。しかし緋本はその期待にこたえられず最近二軍と一軍のベンチをいったりきたり。前夜はダブルヘッダーで投手がたくさんいるためベンチへはいれず、この試合でユニホームを着ることができた。サヨナラ・ヒットはプロ入りはじめて。「ヒットが打ててよかった」とため息をつく緋本の肩をたたきながら「日ごろの努力の結果ですよ」と張本がさかんにPRにつとめていた。
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松本正幸

2017-02-05 08:44:58 | 日記
1974年

ドラフト一、二、三位指名が入団を拒否するという巨人にとって前代未聞のできごと、したがって宮崎キャンプは新しい顔がみられない。「江川か、山下大でも入団してればなあ」首脳陣から声が上がるはずだ。ところで、この松本投手、プロ入り六円目だが、担当記者でも知らぬものが多かった。「バッティング・ピッチャー用?冗談じゃないよ。期待の新戦力だよ」中尾投手コーチが説明した。なるほど、183㌢、73㌔、長身の本格派投手だ。しかも、川上監督、武宮スカウト部長を生んだ第四の名門熊本工の出身。「マスコミのみなさんが顔を知らないのも無理ないと思います。入団早々足、しばらくしてサ骨と骨折が続いて三年間というもの満足にマウンドに上がっていない。もう野球はよそうかと思ったら、武宮さんからカミナリを落とされた」という松本。「好不調の波が多かったぼくが昨年あたりから思い切って投げられるようになった」巨人投手陣は中尾コーチの意向で一月二十日から寒風の多摩川で鍛えられた。お前、宮崎行きかもと木戸コーチにいわれてまさかそのまさかが本当になった。ぼくだって過去五年、うらやましげに一軍行きのメンバーを見送りしましたからね」松本はノーワインドアップ・モーションだ。コントロールをつけるための手段だそうだが、快速球の低めの制球力が目下の課題。「バッティング・ピッチャーやって長島さんや王さんに全力投球する。一軍のキップを手放さぬよう死にものぐるいです」松本、六年目の春である。
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田中章

2017-02-05 08:31:34 | 日記
1974年

小さな仁王さまーマウンド上田中章投手の表情を、ひとことで表現すると、こんな感じになろうか。169㌢、64㌔と小柄だが、太くて濃いマユ、相手を射すくめないではおかないような鋭い目、そして男性的な輪郭を描くその顔・・・。が、顔色は赤くはない。野球選手に珍しい白さである。むしろ青白いという感じに近い。いわば白面の仁王さまだ。ロッテ戦になると、特にその感じが強くなる。後期優勝にひた走る金田ロッテの前に大手を広げて仁王立ち。快調ロッテも、この小さな投手にだけは立ち止まらされ、しばしばギュウギュウ言わされるのだ。神通力、といってもよい。見た目は何の変哲もないような投球がロッテ打線を沈黙させる。巨人時代にの二年間にたったの二度しかなかった先発が、ことしだけでもすでに四度、うち三度までが後期である。その2試合はロッテ戦で、田中は二つとも勝っている。後期開幕戦での完封勝ちは、平和台での試合だっただけに、地元のファンの記事も鮮やかなはずだ。ロッテ・キラー。そう呼ばれる。「たまたま、そうなってるだけでしょう。ロッテは一人一人の選手を見ると、恐い打者がそろってますよ。でも打線としてとらえると、いつもなんとかなりそうな感じなんだなあ。あまりロッテ、ロッテって意識しないのが、いい結果を生んでるんじゃないのかな」だから田中は自分のことをロッテ・キラーだなんて思っていない。「僕はロッテだけにしか勝てないとは思ってないんです。それにロッテ用なんて特別なピッチングがあるわけじゃないんだし・・・。どことやる時だって、先発する時は立上りは怖いし、六、七回は気になりますね。僕にとっては、その辺がピッチングの区切りになってるんじゃないかと思いますね」この夜は速球の走りが悪かった。主武器のシュートも、だからいつもほどは効果がなく、コーナーワークだけに頼る苦しいピッチングが続いた。前半は二、三、五回にヒットの走者を出し、後半は六、八回に四球のランナーを背負った。苦しい手の内をそのまま物語る試合展開だった。だが田中は粘った。今季4勝1敗1分け2セーブの相性のよさと二人連れで耐えた。本人がどう言おうと、この夜の田中は、それなしでは勝てなかったはずだ。ひたすら耐えた8イニング102球、ついに味方は点を取ってくれた。田中の努力にこたえるように球神もツキをプレゼントした。B砲の適時打は一塁ベースを直撃して大きく右前にはね上がったのだ。「3安打ですかァ」と問い返した。大事なところで四球を与えたので、抑えたという実感がわいてこない試合後のインタビュー。「チームの状態がいいので、なんとか打ってくれると思ってたんですよ」水道の水でノドをうるおすと「ああ気持ちいい。完封ってのはいいもんだなあ。それにしてもどうしてロッテばかりに勝つのかなあ」そう言って大きく笑った。仁王さまの顔がエビスさまのようになった。
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