若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

『社会的共通資本』という駄作 ~看板が違うだけで、中身は社会主義~

2020年11月14日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回は、批判のためにわざわざ買ったけど、あまりにも面白くなくてためにならないので途中で積読になっていた、宇沢弘文著『社会的共通資本』を読んでの素人感想文です。

【社会的共通資本とは】

宇沢弘文は、本書の中で、そのタイトルでもある「社会的共通資本」という概念について

======【引用ここから】======
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。(『社会的共通資本』はしがきⅱ頁)
======【引用ここまで】======

と説明しています(もう冒頭から妄想お花畑感が漂っていて吐き気がします)。この社会的共通資本の具体例として、河川、森林、道路、交通機関、医療、教育、さらには都市や農村等々を挙げています。こうした社会的共通資本は、

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。
資本主義における私有に委ねて企業が利益をむさぼることを排除しなければならず、同時に、社会主義における国有も否定して官僚統制に陥ることも防止しよう、ということのようです。そのために、信託・共有といった形態をとって、各分野の専門家の職業的規範に従い管理運営することで、

======【引用ここから】======
資本主義と社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限享受できるような経済体制(『社会的共通資本』はしがきⅰ頁)
======【引用ここまで】======

を実現しよう、それが社会的共通資本の理念だ、と主張しています。
こうして見てみると、宇沢は、資本主義と社会主義の両方を批判して、第三の道として「社会的共通資本」を提唱している・・・ように見えます。しかし、その内実はちょっと違います。

「ソ連が方法を間違えただけで、社会主義自身は正しい考え方なんだ」という左派リベラルの方を見かけたことがありますが、その元祖は宇沢かもしれません。

======【引用ここから】======
1917年のロシア革命を経て、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が正式に成立したとき、経済学の理論的、思想的考え方が、一つの政治体制として現実に存在しうるようになったことに対して、世界の多くの人々は心から祝福し、その将来に大きな期待をもった。また、第二次世界大戦を契機として、かつての帝国主義的植民地であった国々が独立し、その多くが社会主義を建国の理念として新しい国づくりの作業を始めたとき、私たちは、新しい時代の到来を心からよろこんだのであった。しかし、その後の社会主義諸国の経済的、社会的展望は必ずしもこのような楽天主義に応えるものではなかった。とくに、スターリンによって東欧諸国が社会主義に組み込まれていったプロセスについては、その暴力的、強権的手段に対してつよい批判と反感をもつことになった。(『社会的共通資本』13頁)
======【引用ここまで】======

社会主義国に組み込むプロセスや手段が暴力的であったり強権的であったのが悪かったけれど、戦後に社会主義諸国が出来た当初はその理念に賛同し心からよろこんだ事が窺えます。強権的で官僚的な統制が悪いのであって、そこさえ改善できれば社会主義の当初の理念を達成できる、というニュアンスは、本書の至る所にちりばめられています。社会主義国成立前から社会主義を批判していたミーゼスと比べると、だいぶ格が落ちますね。

宇沢弘文を評した著作に『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』といったタイトルが付くように、宇沢の社会的共通資本の考え方は、社会主義に親和的で、資本主義批判に軸足が置かれています。

いや、一応は社会主義も批判してはいます。

======【引用ここから】======
過去70年にわたる社会主義諸国の経験が明白に示すように、計画経済は、中央集権的な性格をもつものはいうまでもなく、かなり分権的な性格をもつものについても、例外なく失敗した。その原因は、一部分、計画経済の技術的欠陥にあったが、より根元的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった。(『社会的共通資本』18頁)
======【引用ここまで】======

ただ、この社会主義についての反省が、社会的共通資本には活かされていません。

【専門家の官僚化】

冒頭挙げたように、宇沢は

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。このくだりに、宇沢自身による「計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾する」という社会主義批判が全く活かされていません。社会主義官僚を専門家に置き換えただけなんですよ。なぜ社会主義国では独裁的な政治権力が生じ、官僚が力を振るい、そして官僚による計画経済の運営が行き詰まったのかの考察がほとんど無く、管理人を官僚ではなく職業的専門家に置き換えただけなので、同じ轍を踏むんだろうとしか思えません。職業的専門家も官僚も同じ人間なのだから、作り手が替わったところで、多数の市民に適用される制度、基準は、人の数だけ存在する個々人の内発的動機と矛盾・衝突するに決まっています。

社会主義国においては、私有は否定され国有となりました。その国有となった資源・財産の使用・分配状況や人事を記録する役職に過ぎなかったはずの「書記」、その取りまとめ役の「書記長」が、社会主義国においては絶対的な権限を持つ肩書となりました。

本書には、社会的共通資本における信託・共有財産について、その管理運営を行う専門家の代表が権力を持って「書記長」化するのを防ぐ手立てや専門家管理の危険性についてすらほとんど言及がありません。宇沢は、医師や学者といった専門家に対し、過ちを犯すな、強権を振るうな、官僚のように杓子定規に統制するなと求めてはいますが、それを実現するために提唱している方法が甘々の激甘です。

======【引用ここから】======
病院をはじめとするさまざまな医療施設・設備をどこに、どのようにつくるか、医師を始めとする医療に従事する職業的専門家を何人養成し、どこに、どのようにして配分するか、またどのようにして、実際の診療行為をおこなうか、さらに、診療にかかわる費用、とくに検査・医薬品のコストをだれが、どのような基準で負担するか、などにかんして、なんらかの意味で、社会的な基準にしたがって、希少資源の配分がおこなわれる。
 しかし、この、社会的基準は決して官僚的に管理されるものであってはならないし、また市場的基準によって配分されるものであってはならない。それはあくまでも、医療にかかわる職業的専門家が中心になり、医学に関する学問的知見にもとづき、医療にかかわる職業的規律・倫理に反するものであってはならない。そのためには、同僚医師相互による批判・点検を行う ピアーズ・レヴュー(Peers' Review)などを通して、医療専門家の職業的能力・パフォーマンス、人格的な資質などが常にチェックされるような制度的条件が整備されていて、社会的に認められているということが前提となる。
(『社会的共通資本』169頁)
======【引用ここまで】======

専門家の相互チェックで多少の不正は防げるかもしれませんが、それで効率的かつ公正な分配ルールが作れるのか。分配を行い基準を作成する人の相互による批判・点検等で能力や人格をチェックするだけでOKなら、社会主義は失敗していません。

社会主義においては、管理と分配を行う官僚が優秀で道徳的であると考えていたはずです。同様に、社会的共通資本においても、管理と分配を行う職業的専門家が優秀で道徳的であることが求められます。社会主義において優秀で道徳的である人だけが官僚になるわけではないのと同様に、社会的共通資本において優秀で道徳的である人だけがその分野の専門家になるわけでもありません。しかも、どちらにおいても、優秀で道徳的な人が管理と分配を行う地位に就いたとしても、効率的で公正な資源分配なんて誰にも分からないのです。

社会主義の弊害として、まず、私有を否定し国有としたことにより、国民は一生懸命に働く動機を見失い、働くよりも配分権限を持つ官僚に接近することが生活向上への近道となってしまう点があります。また、計画経済ではどこに資源を投じる事が効率的でどこでどういったヒト・モノ・カネが必要なのか、そういった判断を全て官僚が行いますが、判断を行うための能力や情報を官僚が持っていないという点、も挙げられます。国民のインセンティブの歪みと、官僚の情報把握・処理能力の限界です。

【金は出せ、口は出すな】

社会的共通資本を管理運営するためにも、ヒト・モノ・カネが必要です。社会的共通資本としての河川、森林、農村、道路、交通機関、医療、教育等々を維持し運営するための費用を、宇沢はどこから捻出しようとしていたのでしょうか。

「社会的共通資本!
  社会的共通資本!
   社・会・的・共・通・資・本!!!!」

と念仏を唱えることで、ヒト・モノ・カネが宙から湧いてくる・・・なんてわけはありません。
仮に、社会的共通資本の運営費用を税金で賄うのであれば、税金を徴収し、これを分配する作業が必要不可欠となります。

宇沢は、大学運営を例に挙げて、

======【引用ここから】======
イギリスの大学では、かつて「政府は金は出すが、口は出さない」というモットーが、大学のあり方を象徴していた時代もあった。(『社会的共通資本』154頁)
-----(中略)-----
私がいたケムブリッジ大学のカレッジは、ほとんど大学の理想像に近いものであった。それからずっとのちになって、社会的共通資本としての大学のあり方を考えるとき、私が心のなかに描いていたのはいつも、このカレッジのイメージであった。(『社会的共通資本』159頁)
======【引用ここまで】======

政府は金は出すが、口は出さない」という態度こそが、社会的共通資本の分野に対する政府のあるべき姿勢であると述べています。

しかし、税収は有限です。そうである以上は、税金を徴収し分配する権限を持つ者に対し、分配要求額を伝え、その金額が必要な理由を説明し納得させなければなりません。税金に依存する限り、徴収と分配の実務を取り仕切る官僚の意向は無視できません。

 社会的共通資本としての河川を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての農村を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての道路を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての医療を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての・・・

・・・この金額を、各分野からの言い値で全額支払うことはできません。もし、金庫番が単年度だけでも各分野からの言い値で支払ってしまったら、翌年度から、各分野の中の人は
「言い値で政府は払ってくれるなら多めに要求しちゃえ」
となり、その瞬間に財政はパンクします。実際にパンクしそうになって行き詰ったのが、「ゆりかごから墓場まで」でお馴染みの当時のイギリスでした。

各分野からの要求額そのままでは支払えない、じゃあどうするかということで、金庫番役の官僚と各分野の交渉責任者が折衝し、金庫番が各分野における個別の事業の中身を聴いて必要性を判断し、聴き取った中での優先順位をつけて、税収とにらめっこしながら予算を配分していくことになります。その過程で、
「その業務、必要?」
「それを実施するためにこの金額は高くない?」
「今年しなきゃダメ?」
「それをやるならこういう形で管理してね」
といった形で、金庫番から各分野の事業に対し口が出されることになります。

予算折衝が、

 財務省 vs 各省庁

であれ、

 財務省 vs 社会的共通資本の各分野の代表

であれ、税金の配分である以上はやる事はそう変わらないでしょう。

【補助金分配のブラックボックス】

各分野の交渉担当者が、金庫番から予算を勝ち取ったとします。すると、この各分野の交渉責任者が、今度はそれぞれの分野の中で予算を分配することになります。予算配分権限を持つ交渉責任者が、分野の中の構成員や団体、事業者からの要求を聴き取り、それぞれに予算を配ることになります。

この交渉責任者が、公正に分配するとは限りません。交渉責任者との縁故で分配が決まるかもしれません。また、個別の事業者や団体への分配額の多寡を他の事業者や団体に説明できるようにするため
「▲▲の条件を満たし、◆◆について毎年報告すること」
といった分配基準を設ける、なんてことも想定されます。

財政民主主義の観点からは、予算配分の必要性をきちんと説明し、配分された予算は使途を明確にできることが重要となります。こうした財政民主主義と、「政府は金は出せ、口は出すな」と要求する社会的共通資本の理念とは相性が悪いと言わざるを得ません。社会的共通資本の議論は、使途不明金が発生するのを黙認し、むしろ推奨しているようなものです。納税者に対し、必要性が説明されていない事業、必要性を説明できない事業に金を使われるのを、黙って許可しろと求めるのは理不尽だと言うほかありません。

宇沢が理想の例として挙げたイギリスのUGC(大学補助金委員会)にしても、UGCが政府から予算を獲得し、これを各大学に分配する際に「不透明な分配だ」「ブラックボックスだ」といった批判が出されています。

この頃、UGCを介して補助金の配分を受ける大学が増えるのと同時進行で、他の社会福祉経費をはじめ各支出項目も膨れ上がり、国民の勤労意欲が失われるイギリスの社会主義化・英国病が蔓延しています。これに対処するため、社会福祉の見直しや補助金の削減、国営企業の民営化等々が行われ、1989年にはUGCも廃止されたわけですが、この前後の流れについて宇沢は、

======【引用ここから】======
1968年、UGCは大蔵省から教育・科学省に移管されることになって、イギリスの大学はまったく新しい環境に置かれることになった。教育・科学省が、大学における予算配分の過程に対して細部にわたって監督するようになり、同時に、大学における研究、教育の内容にまで、専門的な立場から容喙するようになった。とくにサッチャー政権となって、大学関係の予算を大幅に削減するという暴挙に出てから、大きく変質しはじめ、かつての、自由で、闊達な雰囲気が失われてしまった大学が多くなったという。(『社会的共通資本』161頁)
======【引用ここまで】======

と、政府による大学への介入や大学予算削減を「暴挙」とだけ評し、ではなぜこうした措置が取られたのかについての考察、言及がほとんどありません。宇沢にとって不都合だったのでしょう。
経済学の根本にある希少性を軽視し、財政民主主義や公金支出の説明責任をそっちのけで「政府は金は出す、口は出さない」を推奨する宇沢は、不誠実だなぁと思わずにはいられません。宇沢の数理経済学者としての実績は門外漢なのでよくわかりませんが、日本に戻ってからの「社会的共通資本」の主張は、居酒屋談義として聞き流して良いレベルだと思います。

社会主義に傾倒する人は、善意の人が多い。宇沢も、資本主義下で生じた分配の不公正や格差を嘆く善意の人でした。しかし、善意で分析をゆがめてはいけません。
宇沢は、本書の冒頭で新古典派経済学を

======【引用ここから】======
資源配分の効率性のみを問題として、所得分配の公正性については問わない(『社会的共通資本』30頁)
======【引用ここまで】======

学問であると批判し、経済学とは本来、

======【引用ここから】======
分配の公正、貧困の解消という経済学の本来の立場(『社会的共通資本』41頁)
======【引用ここまで】======

であると述べています。
これって、宇沢個人の願望ですよね?
私は、経済の仕組みや経済活動に見られる法則を分析・研究するのが経済学だと思っていたものですから、本書のこの記述を見て
「分析に願望が入っちゃってない?」
と残念に思ったものです。

資本主義批判、市場原理批判からスタートし、社会主義批判については「社会主義は官僚統制が悪い。専門家の管理にしたらきっと上手くいく」程度でお茶を濁して済ましている宇沢。そもそも、本当に資本主義における分配は不公正なのでしょうか。公正な分配とは一体何なのでしょうか。相対的貧困、格差は資本主義を否定しなければならないほどの問題なのでしょうか。

【社会的共通資本の極めて小さな可能性】

もし、社会的共通資本の理念が上手くいく場面・分野があるとしたら、特定の社会的共通資本を共同所有とし、その所有者・利害関係者・ステークスホルダーがある程度狭い範囲で限定可能な場合であって、かつ、管理運営費用が所有者・利害関係者・ステークスホルダーの任意の負担によって賄われている場合、位でしょうか。

本書で登場した「三里塚農社」構想は、その範囲が狭い範囲に限定されていることから、もし関係者の土地集約や関係者からの運営費用徴収の仕組みができれば、上手くいったかもしれません。しかし、関係者からの賛同が得られず構想倒れに終わっているようです。

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