第30話で大展開となった『金色の翼』ですが、本筋については少しおくことにして、ドラマの台詞中に、ギリシャ神話の“イカロスの翼”の喩えが頻繁に出てくるので、一応知ってはいるけれど、もう一度ちゃんと整理しておきたいとかねてから思っていました。
バーナード・エヴスリン著『ギリシア神話小事典』(社会思想社現代教養文庫、小林稔訳)(←ちなみに79年初版)によれば、
イカロスはダイダロスの子で、父とともにラビュリントスと呼ばれるクノソスの迷宮から逃れるため(←彼らがここに閉じ込められる原因になったエピソードがおもしろいのですが、それはそれでかなり長いのでまた別の機会に)、父を説いて翼を作らせた。偉大な工人ダイダロスは息子の願いをいれて翼を作り、二人は飛び去った。
しかしいつも自分の能力を忘れて空想をたくましくするイカロスは、空を飛んですっかり有頂天になり、父親の警告を無視してあまり太陽に近づき過ぎた。彼の翼をつけたろうが溶け、少年は海に落ちた。(中略)
彼の名から「イカロスのような」(Icarian)という言葉が派生したが、それは向こう見ずでうぬぼれた空想を指して言う言葉である。
……翻訳の、わざとのように味気のない文体のせいもありますが、これだけ読むとかなり救いのない話です。『金翼』ドラマ内では槙が修子を抱き寄せて「オレたちは、イカロスになるんだ。」なんて見得切っちゃってますが、観るほうはそれ、ヤバいよヤバいよ、と思わず出川哲朗さんになってしまう。
「父を説いて翼を作らせた」というくだりも、実際、どの程度息子側に容喙(ようかい)の余地があったのか。
他のエピソードを読むと父のダイダロスという人は技芸の女神アテナ直伝の天才的な技工の人なので、「パパ、ボクお外に出たいよ~鳥さんたちみたいに空を飛べば出れるよ~」と“名月をとってくれろと泣く子かな”式におねだりしたのか、それとも父と一緒に鳥の飛行原理を観察したり、図面を引くお手伝いをしたりぐらいの知的能力はあったのか、そのへんの読み方によっても全体のニュアンスが大幅に違ってきますが、“イカロスのような=向こう見ず、うぬぼれた空想”という派生語ができるくらいですから、槙が強調するように自由を求めて飛躍したというより、“好奇心旺盛でやんちゃすぎて自滅したオッチョコチョイ”のイメージが強いように思います。
ダイダロスが“離陸”前、「高く飛び過ぎると太陽の熱でろうが溶けるよ、低く飛び過ぎても海の水蒸気で翼が湿って飛べなくなるよ、太陽と海の間のちょうどいい高さを、父さんが前になって飛ぶから、後ろからついて来なさい、父さんより上にも下にも行っちゃいけないよ」とクチを酸っぱくして言い聞かせたことは別の本にも書いてありますが、そもそもそんな危ない、姉歯物件みたいな翼を、なんでダイダロスほどの優れたエンジニアが大切な息子に与えたのか。
別の本には、大人のダイダロス自身用の翼は大きな鳥の大きな羽根を細引(今で言うテグスか)で綴じて作ったけれども、少年イカロスの体のための翼は細引で束ねられない小さな羽根を使わざるを得ず、そのためろう固めになった、というニュアンスで書かれているので、ダイダロスは本当は息子にはこの危険なチャレンジをさせたくはなかったのではないかなという気もします。
彼にしてみれば、自分の道連れ、人質のような形で迷宮に監禁されている息子をひとり残して自分だけが脱出するわけにはいかず、何とか自由にしてやりたいと思う親心が、エンジニアとして高リスクな製品を実地に送り出すことへの逡巡にまさったのかもしれない。
そこらへんを思うと、ドラマ的にドラマチックなのはオッチョコ馬鹿のイカロスより、むしろ悩める幽閉の父ダイダロスの心理のほうですね。
前のほうにも書きましたが、技工の才に恵まれたことで幸福も不幸も身に呼び寄せたダイダロスの一生についても、いつかここでまとめてみたいと思います。父の動きのほうから逆に、息子イカロスのパーソナリティが映し出される要素もあるようなので。
『金翼』第30話の眼目は、何と言っても杉浦支配人夫妻の衝撃カミングアウトでしょう。
修子のほうは29話終盤時点で“なんかそういうことやりそう”な気配が漂っていたので、さほど驚きもしなかったし、この件(=ロケット利用で容疑転嫁)単体では槙にもあまり同情をおぼえませんでした。
それより、いままで職場であるホテルのよき上司として、仕事仲間として槙に協力し、不遇な身の上を知ってサポートしてくれているとばかり思っていた杉浦夫妻が、なんと「ひとり娘を殺した容疑者の弟であるこの男に密着していれば、憎い人殺しが姿を現すかもしれない」とのもくろみで、狙って槙の職場に来ていたとは。
金谷祐子さんのこの枠のドラマ脚本では、“誰かが実は誰かの実子”モチーフが一作一箇所は必ず出てくるのですが、今季第一弾、ここへ来たか。
槙がセツの提案でパイロット免許取得のためフィリピン渡航を考えていたときの栄子「槙さんがいなくなったらどうする?私たち、困るわよ」、奥寺が槙と兄の事情を嗅ぎ回っていたときの夫妻の動揺など、伏線はあったのです。
「男を選ぶなら、缶詰のような男を選べ、ってね」発言もあったな。結局夫妻、特に栄子さんの槙への接し方は、ちょっと見ほど友好的でも優しくもなく、芯に計算ずくというか、冷たいものがあった。
20話辺り以降から、“状況次第では微笑んで二枚舌”を隠さなくなってきている修子のような人物より、杉浦夫妻のような“実直・温厚担当”が“実は密計あり”をカミングアウトすると、ウラオモテある、それぞれの欲望と打算を秘めつつ日々穏当につくろって生きている、人間存在の怖さがより強く迫ってきます。
槙にも、修子のまさかの(視聴者的には「あるある」)背信より、こちらのほうがこたえたのでは…と思えましたが、最後、腰抜けて立てなくなったのはやっぱり修子の“それが何か?”顔のせいみたい。おめでたいな槙。世間はお盆ですが、盆と正月とクリスマスがいっぺんに来たぐらいのコングラチュレーション。
先に「修子の背信単体ではさほど槙をかわいそうと思わなかった」と書きましたが、好意的で厚遇してくれていたはずの杉浦夫妻が実は…という特大パンチのほうの痛みを、槙がほとんどスルーしていて、修子からのパンチだけに腰抜かしている。そのことのほうが哀れを誘いました。
人間、同じくらいの強度の苦痛を、同時に体の2箇所以上に与えられると、1箇所しか痛みとして知覚できないらしい。
いまの槙には、世界が修子だけなんだな。
でも、ファム・ファタール物語には、槙のような、赤子の手をひねるがごときデ・グリュー(>『マノン・レスコー』)がどうしても必要なんですよね。がんばれ槙。飛んじゃえ槙。
翼のろうが溶けても、うまくいけば落ちた先が宝の島、なんてことも(それはないない)。