トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』を読了したら、ここで感想のひとつぐらいは書くつもりだったのですが、一読、あまりにさらっと薄味過ぎて、もう一度読み返してみないとレヴューにするだけのネタが引き出せんぞと思っているうちに一週間過ぎ、一ヵ月過ぎ。
ひとつ、はっきりわかったのは、自分は“ハンニバル・レクター”という人物単体には、思いのほか関心が無かったということ(倒)。
人を“殺す”だけではなく“喰う”、それも“美味に喰う”ことに彼がこだわる理由、妹ミーシャへの思いとトラウマに関しても、前作『ハンニバル』であらかた想像はついていたので、改めて文庫上下二巻の長尺(しかもかなり薄めの二巻)で説明してくれなくても。
こういうのを“蛇足”と言う。
おまけに、今作、標的となるナチス軍ゲリラ残党たちが、軒並み小者で、鐚一文キャラが立っていない。
大戦後ハンニバルの養い親になる叔母・紫(むらさき)夫人にしても、作者が道楽で調べた日本文化の香りを無理矢理どこかに活かすべく捏造されたようなキャラで、浅い・薄い・ぬるいの三重苦。
贔屓目に言っても“映画化を想定した萌えエロ要員”程度。
やはりハンニバル・レクターは『羊たちの沈黙』で打ち止めにして、トラウマも女としての美点も唯一自分が正確に看破したクラリス・スターリングへの、地上では実ることのない知的・霊的片思いに、未来永劫完結していてほしかった。
そんなわけで、休日もふと気がつくと『金色の翼』について考えている自分が居るわけです。
現時点での精神領域占有度合いで比べれば、昨年の同時期同枠で放送されていた『美しい罠』を上回っているかもしれません。
最終的にはDVD‐BOXを購入するほどのお気に入りとなった『美罠』ですが、実は本放送当時には、類子がこれまでの半生を槐に語る8話で、「これはあり得ない、無理があり過ぎる」と思ってしまい、敬吾銃暴発死の24・25話ぐらいまで、留守録だけは続けていたものの、視聴は完全に脱落していました。
何があり得ないって、中学生時代に家業の不振と借金苦で一家心中の生き残りとなり、親戚をたらい回しされながら“ひとりで生きて行ける仕事を”と看護師資格を取って、激務に忙殺されながらも心優しい男性患者と恋愛をはぐくみ、2人きりの慎ましい挙式当日に花婿交通事故→町の有力者のために救急治療を後回しにされ死亡、という凄絶な人生を送ってきた女性が「人生は退屈な日常の繰り返しじゃない、毎日が楽しい企みの筈」は無いだろうと。
天涯孤独で看護師免許ひとつを頼みに、後ろ盾もなく必死に世の中泳いできた女性なら“タイクツ”なんてタームで人生をとらえる暇などあるはずがありません。
「このドラマおかしいだろ」とここでクシャッと気持ちが引いてしまった。
しかし、運が良かった。この作品に関しては、月河本当にツキがあったのです。
24話を偶然リアルタイム視聴、槙の偽電話で「不破帰国」と聞き慌てて山荘に戻る類子の姿に「アレ、類子いつの間にか奥様におさまってる、どうやって?」と再び興味を惹かれ、毎話のリプレイに戻ってからしばらくして、8話での類子のくだんの名台詞「人生は退屈な日常の繰り返しではなくウンヌン」は、想像力でちょっと読み替えればいいんだな、と気がついたのです。
類子の言う「退屈な日常」とは、“何もすることのない贅沢怠惰な有閑”を指すのではない。“誰からも注目されずリスペクトもされず、名もなく貧しく美しくもなく、食うためにがつがつ働いていっぱいいっぱいで朽ちて行く人生”のことなのだと。
同じく「毎日が楽しい企み」とは、“世間の称揚と羨望を一身に集めて輝き、誰某ここにありと見せつけながら、背筋を伸ばし辺りを睥睨して誇らかに生きる”ことなのだと。
この読み替えのパラダイムに気がついてからは、類子という女性像にぐんと気持ちが接近し、「わかるわかる、よしよしその調子」と思いながら展開を追うことができました。
今作『金翼』も同じ脚本家の作品だけに、一見コロコロ言動が変わって本性が掴みにくい修子という人物にも、同様の“読み替え”が必要です。
彼女が槙にも理生にも主張する「私は誰も愛したことはない、愛で束縛などされない、いつも自由でいたいから」は、“大切な人を愛ゆえに喪うのは嫌”と読んであげるべきでしょう。
「その人のためになら喜んで死ねるほど愛している」とクチで言い、紙に書くのは簡単だし、そんな場面が小説や映画では腐るほど描かれていますが、実際“自分を愛するゆえに、人が目の前で命を落とした”という体験をした者の身になってみれば、「愛なんて、特に真剣本気の献身的な愛なんて、もう一生御免」な気持ちになって不思議はありません。
もちろん、その体験を通して「私のために死んでくれた人の愛に報いるため、他の誰かを力いっぱい愛することで恩返しをしよう」という方向に進む人も大勢いるでしょう。そしてそのほうが人として望ましいには違いない。
しかし、逆境に立たされたとき“心を開いて助けを求められる味方を1人でも多く作ろう”とするタイプと“人はどこまでも頼りにならないから自分が強くなって乗り切らなければ”となるタイプといて、修子は後者だった。そういう人は愛に、どうしてもネガティヴになります。
彼女の災いの種となり、視聴者の反感を買う材料にもなっている“一日一億円使っても百年”の資産についても同様。
弟と2人、かつかつのつましい暮らしで満足なら、こんな楽なことはない。彼女にとって、“裕福”“財力”とは、“孤立無援の人生を戦ってきた自分の成功”“戦いを優勢に進め、うまく生き切れていることの指標”なのです。
そんな物質的なことより、もっと精神的で高尚なことに価値や満足感を見出せばいいだろうに愚かな女だ…とこれまたクチで言うのは簡単です。
しかし平成19年の日本を生きる成人、特に女性にとって、“カネが無くても幸福”という概念の、磐石のご大層さご立派さの前に一抹拭いようもなく漂う空々しさは、すでに周知であり親しいもののはずです。
他方、槙はどうでしょう。理生から「あなたを失うくらいなら自由をあきらめてもいい」とまでの愛を捧げられてはいますが、愛し愛された恋人を殺した兄の事件以来、愛と滅びの相関が、間接的に(?)ながら身にしみているはず。
彼にとって、二言めには“愛”を持ち出し迫ってくる理生よりも、“カネ目当ての偽りの愛”と割り切って追いかけられる修子のほうが、安心して前がかりになれたのかもしれない。ほどなく偽りから本気に移行するのはわかりきったことでした。
三角形のもう一つの頂点、理生はいま不思議なことになっています。島から槙とともに脱出する自由を何より熱望していたはずが、「お兄さんの犯した罪の償いのためにも、島に戻るべきよ」と槙に束縛を課している現実。
自分の求めていた“自由”とは何だったのか。彼女も心揺れているに違いありません。
34話のアバンタイトルに、意味深い台詞がありました。
槙が修子に贈った胡錦鳥を見て「1羽で淋しそうだから、オスかメスか、相手を探してこよう」と戯れに提案する玻留に、「よしたほうがいい、初めから番(つがい)で育ったわけではない相手とは、相性が合わず強いほうが弱いほうをつついて殺してしまうこともある」と言う槙の言葉。
玻留は、姉の愛を争う(?)槙からの擬似宣戦と読んだようですが、“(番としてではなく)それぞれに愛を斥けた孤独な戦士としての人生を歩んできたがゆえに、出会って惹き合っても協調・融和より勝負・凌駕の文脈で相手を見てしまう”のは、まさに修子と槙の現在及び将来を映し出すよう。
「人はどんな理由ででも人を殺せる、怒り、不安、嫉妬、憎しみ、欲望…そして愛でも」
29話で、日ノ原氏殺害の詳細を語ったときに修子が言い、槙が兄の事件と5年前の再会について打ち明けたときに再び引き合いに出したこの言葉が、2人のクライマックスに結びつくような気がします。