ラジオで甲子園の高校野球中継を聴いていると、実況のバックに聞こえるブラスバンドのナンバーで、ふとタイムスリップしたような気分になることがあります。
ピンクレディー『サウスポー』、ずばり野球をテーマにした歌ですが、リリースは78年。実に29年前の曲です。
いまアルプスでこの曲を演奏している応援団も、合わせて踊るチアガールズも、応援を受ける選手たちも、リアルタイムでこの曲が、ミーちゃんケイちゃんの激しくて可愛くてちょっぴりエロい振り付けとともにTVで繰り返し流れていたことを知る由もないでしょう。
せめて、指導する部長先生ぐらいは、先日の阿久悠さんの訃報を練習の休憩時間ぐらいに「これの原曲の作詞をした人なんだよ」と教えてあげたりしたかな。
爆風スランプ『Runners』ですら89年。彼らにとっては“生まれる前に流行ってたらしい曲”です。
山本リンダさんの『狙いうち』に至っては73年。ヒット曲番組を賑わしていた当時はリンダさんの微妙露出な衣装と振りにばかり目が行っていましたが、これこそ曲調、構成、歌詞、何から何まで“スポーツ応援ソングに使われるために作られたような”曲ですね。
創価高校の応援では他校より多く演奏されているかな?と思いきや、確かめられる前に敗退してしまいました。
『金色の翼』第35話に戻ってみます。
「“ただいま”って言ったら“お帰り”って言ってくれる人がいるのはいいものね」と槙に笑みを見せ庭先での線香花火を楽しんでいた修子が、槙の「俺たち結婚しよう、日ノ原氏の遺産は一族に返せば、せめてもの(氏殺しの)罪滅ぼしになる」とのプロポーズに一転態度を硬化させ、「私にとって結婚は檻のようなもの」「愛するなんて、相手から自由を奪うか、相手の自由になるか、お互いの自由を束縛することだわ」と言い放って、奥寺にしなだれかかる姿さえ見せつけました。
「淋しい女だな、あんたは」と言い捨てて槙が出て行った後、斎戒のように湯船に身を浸し、短い2人の夏の日々を思い返し涙ぐむ修子。
愛し愛され一つ処に巣をいとなむ幸せを、何ゆえそれほどにこの人は拒否するのか。
愛さない、愛されないという砂漠のような自由に、何ゆえそれほどに拘るのか。
思い当たるのは、彼女がこの、幼時を思い出させる古い家に槙とともに始めて立ち寄ったとき語っていた両親との別れです。彼女の中学校入学式の前日、隣家からの貰い火で自宅が全焼、自分と弟はシーツで身体を縛って窓から脱出させてもらって助かったけれど、逃がしてくれた両親は煙に巻かれて死亡してしまった。
生き残った弟と2人で親戚宅を転々、そこから修子の“自分の居場所”を求めての渇望の旅路が始まるのですが、大切なのは“自分を助けるために、最愛の人たち=両親が命を落としてしまった”“自分を愛していなければ、彼らは死なずにすんだ”という原体験のほうだと思います。
(もちろん、18話で彼女自身のクチから涙とともに語られたこの回想が、金目当てで近づいてきたと察しのついている槙を本気にさせるための“飴とムチ”の“飴”だった可能性もありますが、人間、ためにする計算ずくのウソにも、アタマでの計算ずくであればあるほど人間性の本質を映し出す“一分のマコト”は含まれるものです)
その後の彼女の生き方は、そばでつぶさに見てきたはずの弟・玻留が2人きりのときはしなくも漏らす言葉の端々「姉さんには珍しいね、あんな金のない男(=槙)、とっくに用済みかと思った」(33話)「何だよ、本気で男に惚れたみたいな顔すんなよ」(34話)で察せられるでしょう。
修子は、愛に伴う束縛や自由の喪失どうこうより、“愛してくれる人が、自分への愛ゆえに滅ぶ”ことが何より怖いのだと思う。
だから「愛しているから結婚しよう」と、金や打算抜きの純な真情を向けられると必死に斥けるのです。
片や槙も、本気で愛し合っていたはずの恋人を殺して逃亡中の兄という“愛ゆえに滅びた者”を大切な身内に持つ男です。
愛したい気持ちが人一倍強いくせに、それゆえ愛を怖れ、愛を嫌悪し、愛を拒む2人。
35話の中では、姉の内面の揺れに気づいた玻留に荒らされた部屋で修子が煙草を見つけ、槙に冷たい別れの言葉を投げながら、特に吸いたくもなさそうなのに火を点けて一服のあと燻らすシークエンスが良かった。
修子の、本編初めての喫煙シーンで、槙に愛想を尽かさせるためわざとすれっからしの振りをしたと大筋では受け取れますが、しゃがみ込んで点火する仕草が、‘槙に出会う前’の‘断固愛を求めない、利用できるものを何でも利用して生きてきた自分’を呼び寄せ“下りて来させよう”とする“儀式”のようにも見えた。
何より、彼女は「あなたを愛してるなんて一度も言った覚えはないわ、そこだけはウソはつかなかった」と仮面のような顔で言い放ちながら、みずから“煙に巻かれよう”としていたのです。
愛されて滅ぼすよりは、愛して滅ぶ側でいたい。彼女の自分でも意識しない切なる願いが雲間の月のように透けて見えた、美しい場面だったと思います。