元祖・カリスマモデルの山口小夜子さん、亡くなりましたね。
訃報と一緒に出たプロフィールによれば、71年にモデルデビュー、72年にパリコレ進出して、77年にニューズウィーク誌“世界のトップモデル6人”に選ばれています。
月河が実家母の読む『ミセス』『マダム』『家庭画報』などの雑誌のグラビア・広告ページで見かけ始めたのもちょうどその頃だったと思います。
いま考えれば信じがたいことですが、70年代初頭の当時は、広告であれ、服やインテリアといった実用情報であれ、ちょっとでも“お洒落”“リッチ”“先進性”の味付けのあるページのモデルさんは白人か、白人系のハーフが当たり前でした。
特に広告に関しては、化粧品やクルマなどのゼイタク品はもちろん、バス・トイレタリー、家電製品、チョコレートやキャンデーなどのお菓子から、今で言う企業イメージ広告に至るまで、ひたすら白人白人。
やはり敗戦後20数年ですからねぇ。大げさに言えば、連合国軍の占領政策によるメディア操作が、独立回復後も尾を曳いていたんでしょうね。
そんな中、プロポーションは模範的八頭身瓜実顔のモデル体型ながら、引き目鉤鼻の平安朝風顔パーツとストレート黒髪の山口小夜子さんは強烈な異彩を放っていました。
パリコレやオートクチュールには縁のない地方の中学生だった月河としては、やはり、資生堂の雑誌広告、ときどき薬局のカウンターでパラ見するPR誌『花椿』の表紙がいちばん印象的だった。
「そうか、日本人なんだから、日本風でいいんだな」ということに多くの広告主や代理店も気がついたのか、小夜子さんの台頭以後の70年代後半から、地滑り的に日本人モデル起用の広告が増えたと思います。
57歳。亡くなる3日前には事務所と電話で仕事の打ち合わせもし、特に持病もなかったそうです。もったいない、惜しいと傍目からは思いますが、“美しくあること”“カッコよくファッショナブルであること”そのものが生業だという人生には、57年でも長すぎるくらいの重圧だったかもしれない。
同じ“存在が生業”組でも、女優や小説家なら、老醜したり家族や異性関係のドロドロで磨り減っていくさまをも商品化し、それによって自浄し延命する道もあったでしょうが、小夜子さんはそう言うタイプのディーバではなかった。
十二分に生き、完全燃焼された57年だったと思いたい。
「日本人が日本人らしくあることによって美しくカッコよく世界に見せる」という至難の命題は未解決のまま、平成に時は移りました。
ご冥福をお祈りします。
『金色の翼』第37話。
玻留が隠した迫田ファイルをひそかに奪回すべく島のホテルを再訪した修子の大冒険より何より、今日は石野料理長(田中聡元さん)の槙へのひと言「理生さんを泣かせたら、オレも黙ってないから」が圧巻。
理生にひそかに好意を寄せているという、極限まで抑制的な描写以外、誰の味方にもならず敵対もせず寡黙な勤勉を貫いてきた石野が、初めて自分の感情をあらわにしたという意味よりも、ドラマ展開上大きいのは“こんな(温和で協力的な立場の)人まで敵に回してしまった”槙の四面楚歌ターボ。
今日のひと言で槙をガツンと追いつめた料理長、ドラマ的にグッジョブ。観るほうもガッツポーズのシンクロでした。
すでに槙は、良き上司であり職場仲間であったはずの杉浦支配人夫妻とも、30話以降兄の消息をめぐって微妙な関係になっています。
何度も繰り返しになりますが、“宿命の女”ものにおいては、女(=今作では修子)の正体や真意や過去の謎探りがサスペンスの主軸になる必要はまったくないのです(なっても悪いことはないのですが)。
主軸はあくまでも、“女”の存在や言動によって、善良、廉潔、勤勉だった人間が自分でも気がついていなかった潜在的な欲望に火を点けられ油を注がれ、本来あるべき道を踏み外し、協調すべき人・大切にすべき人を敵に回し、信奉してきた価値観を突き崩されて、失ってはならないものを失い、やってはいけないことに次々手を染めて、自縄自縛で人生が狂って行く過程にこそあるのです。
槙は修子を陥れる力を持つ迫田ファイルを先んじて手に入れ、戦いのイニシアチヴを取った気でいるようですが、自分で優勢を自覚して得意なときほど、足元の陥穽が深いということに気がついていません。
しかも今作の“宿命の女”修子は、本気で槙を愛しています。何とか彼を自分から遠ざけ、イノセントな状態に保ち、自滅をまぬがれさせたい。その切なる思いがますます槙を惹きつけ、巻き込んで行く。
斥けることで惹き込んで行き、敵対することで深入りして行く。「あぁダメだよダメだよ…でもくっついて欲しい!」という二律背反な気分で観られれば最高なのですが、理生のキャラがなぁ。
「言ってることは間違っていないし、世間的な幸せならこっちとくっついたほうが簡単で安泰だけど、でもくっついてほしくない」と視聴者を焦れさせるアクの強さが、『美しい罠』の澪、『危険な関係』の美佐緒辺りに比べて、理生には薄い。薄すぎる。
“中途半端にかわいそう”で“中途半端にズルく生臭い”。
今日の槙の台詞に「人に利用されるより、必要とされて生きるほうが、どんな財産より豊かな気持ちになれる」という言葉が出ました。
まさに、理生がそういう、無難で堅実に満ち足りた人生を体現する存在であれば、修子と槙の関係の弓を、もっとキリキリ引き絞れたはず。
槙‐修子の“お似合い感”“危ない、ヤバい、滅びの予感がするけどくっついてほしい感”がいまだ切々と迫って来ないのは、この理生という恋敵キャラの造形の甘さによるもののような気がします