林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

墓ではない

2007-02-05 | 高麗便り

  多峰主山頂上の「経塚」

 多峰主山頂上の小さな石塔を、墓と勘違いしている人が多い。
石塔は墓ではなく、実は「経塚」である。経塚とは大切な経典を永く後世に伝えるため、筒に収めて地中に埋めて塚を築いたものである。上に五輪塔などを建てることもある。
ここの場合は簡単な墓石状だから、墓と間違えるのだ。
この経塚の構造については、埼玉県が隣に設置した案内板に書いてあるから、遠くの山並みを眺めたら、よく読んで下さい。
 昔の人はいくら偉くても、山の頂上に墓を作るような不躾なことはしなかった。西武の創業者一族とは一線を画しているのである。

  中腹の「黒田直邦候墓所」

 本当の墓は、多峰主山頂上直下、伐採した樹木の残骸を山積みしてあるところから、薄暗い檜の樹林に入ると、デ~ンと建っている。
墓の中には飯能地方を統治した黒田家の始祖黒田直邦候の遺骸が安置されている。
黒田直邦は徳川4代将軍綱吉の事務所に10人扶持待遇で就職して以後、栄進を続け、8代吉宗の時に上州沼田3万石の大名に昇りつめた。
黒田家は2代直純になって、上総久留里城主に異動するが、飯能地方はそのまま領して明治維新を迎えた。
 直邦候の墓は世嗣直純候がここに築いたのである。
重機が無い江戸時代に、よくまあここまで重い石材を運び上げたものよ、と感心する。
墓の背後の石垣は堅固。右側の墓誌(残念ながら学が無くて読めないので墓誌とする)は巨大であり、一見の価値があります。
 墓石の上の斜面に石柵に囲まれた凝灰岩の自然石がある。
たぶん神道に関係があると思うが、何なのか教えてくれる人はいないだろうか。

  常盤が丘の「寶篋印塔」

 直邦候の墓所から急傾斜の石段を下り、雨乞池の脇から坂を上ると常盤平である。
その左手の小高い丘の上に、端正な石塔があり、正面(東側)には「寶篋印塔」と彫ってある。
これも墓という人が多いが、電子辞書には「寶篋印陀羅尼」を収める塔である、とある。解りますか?森男も解らない。「宝箱ブランドの長ったらしいおまじない」という意味らしい。要するに、「怪しい呪文」であろう。
また、後世、供養塔や墓碑塔として建てられた、と電子辞書には書いてある。
近くにある飯能市の看板では、常盤御前の墓跡に建てられた、とあるから、まあ墓碑、つまり「墓石のようなもの」なんだろう。
 ただ、源義経の実母で、平清盛の愛人になったと言われる絶世の美女が、本妻の息子の頼朝が住む鎌倉近くをうろうろするとは思えない。この辺は鎌倉幕府の御家人の群居する地域だったから、偽者の墓があったのだろう。
 建てられたのは宝暦(1751~1764年)13年。建てた人は性山玄海権律師である。「権」は「副」という意味だから大したことは出来ないと思うが、実に立派な美しい塔である。
塔の西側に、「界塔婆 是諸佛體 十方檀那 現當巨益」と彫ってある。
何かお目出度そうである。

 とりあえず、今日分かったことはここまで。以後、NET百科事典「ウィキペディア」のように、書き足します。詳しいことを知っている方は、教えて下さいね。
 多峰主山に登るよりも疲れました。はい。


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