芸術新潮の2月号は、川端康成が集めた美術品を特集している。
特集は、美術品の水準の高さから、川端の審美眼を賛美したものになっている。
また、川端の不可解な性格を色々な人が語っている。
文学的業績は偉大だったが、心の闇は深かったようである。
森男も負けずに川端康成の複雑怪奇さを指摘してみたい。
ただ、記録や参考文献なぞ手元に無く、全くの記憶頼りだから誤解と間違いばかりだろうが、そこは素人の図々しさで、以下にまとめてみました。
ロダン作「女の手」
■森男が若い頃に見た川端康成
鎌倉駅で数回見かけた川端康成は鋭い目つきで、近寄り難い怖さがあった。
北鎌倉駅の柵を森男と一緒に乗り越えた高見順などと較べて、凄みすらあった。
当時は川端原作の映画が多かった。主演女優と並んで笑っている川端からは想像できない厳しい雰囲気があった。
乙女頭部埴輪(古墳時代)
■作家龍胆寺雄の川端康成
昔、当時の流行作家が交代で編集長を務める面白い小さな月刊誌があった。野坂空昭如氏の原稿が間に合わず、白紙の頁のまま発売して、出版界では激賞されたが、編集発行人は胃潰瘍になった有名な雑誌である。名前は「面白半分」である。
これに、龍胆寺雄が連載したことがある。
その中で、龍胆寺は川端康成を激しく攻撃していた。龍胆寺は川端と共に文壇に登場して、共に将来を嘱望されたが、川端の策謀によって排除されてしまった、と恨みつらみを書いていた。
龍胆寺は川端の小説を代筆したことがあったらしい。
なお、文壇から外された龍胆寺は、その後サボテン愛好家として一家を成し、サボテンの名花には彼が命名したものが多い、と県内のサボテン界の大幹部である森男の古い友人から聞いた。
千羽鶴蒔絵平棗(江戸後期)
■作家山口瞳の川端康成
山口瞳は川端康成邸の隣に住んでいて、ご母堂が康成と親しかった。
ご母堂は魯山人の食器を日常生活に使う豪胆な人だった。
若かった山口も川端の家に出入りし、川端の私生活に詳しく、川端のことを「勘定高い人」と評していた。
もしかすると魯山人の食器を横取りしようとしたのではないだろうか。
このことは、確か中公文庫の「旦那の意見」に書いてあった。
余談だがその本では、日経に連載された田中角栄の「私の履歴書」の嘘を暴いていた。
田中は若い頃勤務先の土建会社とその社長夫人を奪ってしまった。敗戦直後朝鮮から脱出する際の行動を、卑劣な行為と糾弾してもいた。
森男は田中評に驚いてしまい、肝心の川端を勘定高いと評した理由は覚えていない。
アフガニスタン ハッダ仏陀頭部塑像
■作家保坂和志の川端康成
芸術新潮の特集号で、川端康成邸のすぐ傍の家で育った保坂和志氏が、小学生の頃の川端の思い出を書いている。その中で、川端行き付けの本屋の話を紹介している。
川端は本屋の目を盗んで、自分の本が目立つところに置き変えていた。
「あの川端先生でもやっぱりそうなのか」と店主は言っていたそうだ。
この特集では文藝評論家慶応大学教授の福田和也氏と、詩人の高橋睦郎氏との刺激的な対談がある。
・川端と三島由紀夫の面従腹背の交流
・三島の葬儀の際の葬儀委員長としての苛烈な発言
・非常識な借金の仕方や骨董商への不払い
・「伊豆の踊り子」執筆旅館の3年間の滞在費不払い
・若い女性に対する尋常ならざる優しさ
・性的には犯罪者すれすれの行為、収集品の見かけとは異なる禍々しさ
・川端の審美眼に対する小林秀雄や白洲正子の蔑み.......、
等々驚くべき内容である。
■美術館学芸員の川端康成
長瀞町の荒川の崖の上に、東京の画商が小さな美術館(★)を開いていた。
☆閉館した「ギャラリー長瀞一番星」庭園
建物は豪壮ではあるが、日本家屋のため展示場所があまり無く、小品中心の作品だった。
ただ教科書に載っている有名画家のものが多く、驚いてしまった。
だが、まさか長瀞のような田舎に、と信じらなかった。多分贋作だろうと一緒に行った名山氏と話していたのを若い学芸員に聞き咎められた。
学芸員は絵を壁から下ろし、裏まで見せて本物であることを詳しく説明してくれた。
親切で熱心な学芸員は、展示してあった川端康成愛蔵の裸婦の絵も解説してくれた。
生身のトルソーを描いた不思議な構図の肌色の綺麗な油絵で、康成は日夜この絵をじっと眺めていたそうだ。
しかし康成の死後すぐに、未亡人はこの絵を売りに出した。他の美術品は鎌倉の自邸にあるのに、未亡人は何故この絵だけ売ってしまったのか、謎である。
また、特別に茶室にも案内してくれた。
小さな床の間に康成の書が懸かっていた。内容は、
極楽に行くのは易しい 地獄に落ちるのは難しい
といった内容の漢詩だった。学芸員は関連資料を示しながら、詳しく説明してくれた。
悪事を働いた自分(康成)は、生きている間じゅう良心の呵責に苦しんでいる。だから悪事を働くのは辛く難しい、といった意味だったか.......。
(違っていたらあの学芸員さんに謝ります。メモしてなかったからね)
川端康成は、自邸から近い「逗子マリーナ」のマンションの自室で自殺した。
マスコミは創作力の衰えを悲観した自殺、としていたが果たしてそうだっただろうか。そんな単純なものではない、と森男は思っている。
「伊豆の踊り子」や「雪国」を、先生に薦められて中学生か高校生のときに読んだ。
踊り子は甘美な青春小説、雪国は「ふ~ん、そうか」で済ませていた。
ところが、定年退職してから読んだ踊り子の印象は、全く違っていた。「雪国」もまた読み直さなければ、と思っている。
ノーベル賞賞状と箱(受賞者毎に別意匠の由)
田辺聖子の長編小説に「ひねくれ一茶」(吉川英治文学賞)がある。俳人小林一茶の伝記小説である。
一茶の俳句を縦糸に、一茶のパトロンたちの洒落た着物や、宴席の旨そうな料理を横糸にして、一筋縄では括れない複雑な性格の一茶を、余すところ無く書き切った傑作である。
難しい性格の一茶が、読み進む内に愛おしくなる小説だった。
「悪事」を働いて苦しみながら、蒐集した美術品に癒される禍々しい文豪川端康成の伝記小説を、誰か書いてくれないか、と思っている。
谷崎潤一郎の晩年の12年間については、編集者として信任厚かった伊吹和子氏が評伝を書いている。(特集では、この伊吹氏が川端の異常な歓待に困惑した模様が書いてある。)
辻原登さんのような手練が書いてくれればいいのだが......。
川端が原稿料を前借して買った国宝「十便図(池大雅)十宜図(与謝蕪村)」
ところで......
川端康成特集に拠ると、この「漢詩」は川端康成作ではなく、一休宗純の「言葉」だった。つまり......
仏界入り易く 魔界入り難し
どうも間違いだったらしい、とNET検索をしたら、この言葉に言及したブログが見つかった( BlueBloomBlog)。読んでみて感心してしまった。格が違う、と。
極楽地獄は仏界魔界だったのだ。そして魔界は「創作活動」と判読すべきだった。
だが、そうすると仏界に入るには普通に生きていればいいのか?
一休宗純については、童話の一休さんとは異なり、一茶同様に相当のひねくれ者、食わせ者と酷評した有名人(名前は忘れた)の対談があった。
一休は僧侶だから自分は既に仏界にいるよ、と嘯いていたのかもしれない。
要するに何が何だか分からなくなった。
でも、構うものか。
相手は文豪。森男は零細ブログ書き。風説の流布にはならないし、この記事書くのに大分日数かけて、他の記事の在庫は無い。浅墓な推理、理解例として、書き換えないで恥を晒しておこう。
川端康成は、小説再読新発見、家族交友関係邪推、蒐集美術品の勉強、鎌倉大仏界隈と由比ガ浜散策、関連ブログHPの覗き見........、といくらでも楽しめ、間口も奥行きも広いとびきりの「魔界の人」である。
お楽しみの入り口は、「芸術新潮」2月号にあるようだ。
愛蔵の土偶を前に「乙女のような初々しい表情」
☆印は「山を歩いて美術館へ」をご覧下さい。
「十便十宜図」は香川県立「東山魁夷せとうち美術館」HPから借用しました。
他の画像は「芸術新潮」から部分的に切り取りました。
美術品は財団法人川端康成記念会(鎌倉市)所蔵のものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます