CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

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コンピュータでない方のアップルです

2015年10月29日 | BEATLES-BADFINGER関連
昨日、 CS放送のチャンネルを操作していた時、たまたまアップル・レコードのドキュメンタリーを放映していた番組に目が止まった。

アップル(APPLE CORPS)の中の5大事業の稼ぎ頭であった、アップル・レコードの理念は、メジャーのレコード会社とは無縁の才能のあるアーティストを発掘し、レコードを制作することにより彼らを世に知らしめるということであった。

途中から見たので、話は既に70年代に入っていて、アップル全体の稼ぎ頭のビートルズはすでに解散し、メンバーはソロ活動をスタートさせた時期の話であった。

ヒットを出すことに成功したバッド・フィンガーやメリー・ホプキン、成功には至らなかったもの、アップルからのデビューで才能を開花したジェームス・テイラーやビリー・プレストンなど、理念に叶う仕事も残した。

しかしながら、アップルのスタッフがほぼ経営に関して素人集団であったこと、レット・イット・ビー制作時にビートルズのマネージメントの契約を勝ち取りアップルに乗り込んできたアラン・クレインの強引な経営手法、そしてアップル内におけるビートルズのメンバーの発言権の強さなどが、アップルの経営に混迷を与え最終的に事業が縮小されるというストーリーであった。

その中で特に注目したのは、ビートルズのメンバーの関わり方だった。

リンゴは、ドラマーとしてレコーディング・セッションに参加し各ミュージシャンをバックアップした。

ポールやジョージは、ある程度商業的な成功を意識してアップルのアーティストをプロデュースしたりバックアップをした。例えば、バッド・フィンガー、メリー・ホプキン、 ジェームス・テイラー、ビリー・プレストン、ジャッキー・ロマックスやロンとデレクのイートン兄弟などの作品は、 今でも一聴する価値はあるものと思う。例外として、インド関連の作品は、商業的な成功が初めから見込まれない ジョージの趣味的なものだった。

それから、ポールのポップ路線を拒否したメリー・ホプキンの2作目のフォーク路線が一枚目のように商業的に成功しなかったのは残念であった。まあ、ボブ・ディランやジョーン・バエズのようなギター一本で歌唱するフォーク路線で成功するには、やはりカリスマ的な魅力が必要で、メリー・ホプキンでは少々荷が重かったのかも…

一方ジョンは、商業的な成功は考えず自身の感性によってアーティストをリクルートしプロデュースした。オノ・ヨーコやエレファンツ・メモリーなどがそれにあたる。

特にオノ・ヨーコの作品は、アップルのスタッフも初めから商業的な成功は無理と分かっていたが、ジョンに対してノーとは言えず、結局アメリカやヨーロッパで多額費用を使ってプロモーションを行い、セールスは全くダメだったという結果に終わる負の存在だったと当時の関係者は語る。

これは、ビートルズの大成功により各メンバーが大金持ちとなり、特に芸術肌の人は金銭感覚に疎く、 アップルの経営に関して無頓着だったのが原因だったのではと思う。

アルバム、イマジンが好評だったからなのか、ジョン自身が改めて商業的な成功とは何なのかという認識を思い知らされるのが、1972年6月発売のSOME TIME IN NEW YORK CITYで、このアルバムは思ったほどに売れなかった。

オノ・ヨーコの “ア~ア~ア~”一辺倒の高音の雄叫びのような歌唱をメインとする作風から、以前から比べると親しみやすいポップな方向に変わり、ジョンとしても全体的によい出来に仕上がったという自負があったみたいだが、どうもファンが彼に望んでいたものとは違っていたようだ 。

1972年末、リチャード・ニクソンがアメリカの大統領に再選され、ジョンはさらに意気消沈したのか、次作は1973年末のMIND GAMESまで待たなければならなかった。そして、次作ではラジカルなメッセージを含んだ楽曲はなくなり、聴きやすいアルバムにと変化した。

70年代初期の経営に関するゴタゴタの後、アップル(APPLE CORPS)は 、アップル・レーベルのアーティストの楽曲を管理し、リマスターやリミックスを施して旧譜を再発する、という過去の遺産によって生きていくと方針で業態をスリム化して以来、非常にスマートな存在となった。

60年代や70年代にビートルズ経の信者となり、今更改宗が出来ない人々から確実にお布施を集めるシステムを確立したのである。

今日もどこかで、来月発売される新装版BEATLES 1をネットで購入するためのクリックが、あちこちの信者の間で聞こえるのである。