四季の旅人

私のブログは生きるを旅として、四季を歩きながらその表情を文に纏めているのが私のブログです。

悲しいと思う、ひとつの言葉。

2008-11-14 | Weblog
感謝の意味。

私が子供の頃の食事はお膳。
今では数少ない食事提供の方法、いまの日本の旅館でももうお膳で配膳している所は少ないのでは?囲炉裏にお膳、今ではもう世界遺産なみかも。
上座、下座がはっきりしていた食事の居間、私にとっては懐かしい過去の物語かも知れないし、私の子供に話せば時代遅れ、何?それ、馬鹿にされるのが落ち。
ある意味で長生きしているのかも・・・
また古い時代に生きたのかも、昭和のノスタルジーかな?

私は信じ深いひとりでもないし、宗教一筋でもない。
土台、宗教は自らの精神の中で湧いてくる自然体なもの、周りから、あれこれ言われ、勧誘みたいに誘われ信じるものでもないし、押し付けたりするものでもないはず。
まして自分が信じる宗教がベストで、他の宗教が邪教と言う最近の新興宗教には疑問を感じる。
確かに日本は宗教の自由をいっているが、我々の世界はいろんな文化、宗教を持っている、
「生きる」と言うことは互いに共存して強調しあう事である。
つまり「郷に入れば郷に従う」これが大切、なかにはその施設に一歩足を踏み入れると、信じることになるといって入らない。
あるいは葬式でも死者に線香を奉じることを否定する。
確かに信奉者に言わせると今の宗教は堕落している、だからこそ原点に戻るべきと宗教者の一部が反発する、宗教も世の流れのなかで変化してもいいのでは?そう思うのであるが、信じると人は柔軟性を失うものである。

少し本題からそれたけど、
仏教で言う食事の前の「いただきます」の意味。そして唱和。
もうその作法が各家庭の食事風景からなくなりつつあるのが今の現実、現況。
私たちが生きると言うことは、この星に存在するいろんな物から命を貰っている、全てに命があり生きている、いいかえればどんな物にも生きて、家族を持って、子孫を残し、繁栄する権利があること。その命をお裾分けして貰っているのである。
つまり、我々はこの星の住人から恩恵を受けているのである。
それなのに「あれはいや、これは嫌い」そう言って食は残す、美味しいものは飽食するまで食い尽くす、その食事には感謝もないのが実態である。
仏教の作法である食事の前の静かに手を合わせ合掌して感謝の想いと祈りを籠めて、
「いただきます」唱えて食することが少なくなっている事が悲しい。
私はこの行為がイコール宗教を信じることにはならないと思うのであるが、私の知っている限り、この行為は異教徒の信仰を信じることだと私の知っている人は否定する。
それって可笑しいのでは?確かに行き着く先は「卵が先か?鶏が先かになる」
私たちはいま、存在しているのは両親があって祖先があってのこと、つまり、その祖先に対して感謝の想いに手を合わせて表現する、このことは大切なことだと思うのですが、食事の時の合唱、食べ物を粗末にしない、何でも食べる。
料理してくれた人に感謝して残さないで食べる、その感謝の気持ちがいま、教えられることなく「個人の自由、個人の尊重」と錯誤のなかでなくなりつつあるこの現実。

私はひとつの危惧を覚える。

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