当然のことかもしれないけれど、文明の進歩に伴い時代時代によって淘汰されていく職業というものがあります。例えば、江戸時代の籠屋、(馬車の)御者、飛脚などは明治に入ってから鉄道や自動車での移動や流通手段の進歩によりなくなりました。
そんな昔の話でなくても、私のOL時代((^_^;)昔か)にはあった英文タイプとか和文タイプもワープロに置き換わったし、そろばんや電卓での手計算も今やパソコンの表計算ソフトが代替しています。情報検索だってインターネットで瞬時にできるし、遠くの地域の品物のネット通販で自宅まで届けてくれる時代です。
誰もが(もちろん私も)、小さな機械の画面を通して「全てを」見聞き、知ったような、体験したような気分になれる時代になっちゃった。たった10年くらいでね。
そして今は、AI・人工知能技術を活用して、更に何でもできちゃうという状況
文章を自動で生成するだけではなく、絵画音楽、あらゆるクリエイティブまでも自動生成できるらしいし、誰かの映像や音声を取り込むことでその人本人を表現(配信)して見せることだってできるらしい。
先日、50代のカメラマン(フォトグラファー)歴30年以上と言う方とお話しする機会があり、「今はほぼ仕事がない」、とおっしゃってました。
「昔は性能の良いカメラやレンズを大きなカバンに入れて取材先に行って、写真を撮ってなんぼと言う仕事が結構あったものなんだけどね。今はスマホにあらゆる装備が揃っているので、素人でもそこそこの写真が撮れちゃうからプロのフォトグラファーっていらないんだよ」っておっしゃってました。
その方は雑誌に自分のコラムも持っていたし、自分の作品の特集が載った雑誌をとてもたくさん持ってらして、それらを懐かしそうに眺めていました。30年以上関わったというその仕事はその人の人生そのものに違いなく、人生そのものだった仕事の需要がなくなるという事は、人生そのものを否定された気持ちになってしまったのかもしれません。。
これはほんの1つの例に過ぎなくて、私の知らないところで100年前と同じように需要の縮小で消えつつある(パイが小さくなっている)職業はもっとある、これからも増えていくんだろうな、と感じざるを得ませんでした。
ところで、「仕事が自動化されたら仕事をする時間が減るから、その分自分の時間が確保できるよね、ラッキーじゃん♪」なんて思う人はひょっとしたら実はそれほど多くなくて、自動化されることで残った(余った)時間にはまた別の仕事をねじ込む、という結果になっているのが今の働き方(企業的働かせ方)だと思うのです。
別の仕事をしてもらうことで会社の利益も増えるし、場合によってはあなたの給料もそれで増えるし(多くの場合それはない)、と言う理由で。
個人でも、タイミーなんてサービスが生まれているのにはそういう背景があるんだと思うなぁ。
でもさ、日が出たら動き、日が沈んだら休む、という生き物本来の活動(夜行性の生き物だって日中は休むのよ)を考え、それを人間に当てはめれば、その活動部分の何割かが自動化されて「何もしなくていい時間(余白)」ができれば、自分のためだけの時間に当てるのは当然じゃないかなって考えるのですよね。動物行動学の本に、狐だったか、お腹がいっぱいになったら"お仕事"はおしまい、後は遠くまで遊びに出かけるって文章を読んだことがありましたよ。で思い出したのが銀行で働いていた親族の話。「昔は午後3時に終わって、家に帰って子供の宿題手伝ったりしてたよ。転勤も多かったから地方の街をいっぱい楽しんだねー、特に飲み屋とか」なんて言ってました。
高度成長期の日本を支えてきたビジネスマンの話だから、それなりの大変さや苦労もあったんだろうけれど、今に比べればまだ人間らしい(生き物らしい)生活かも、とも感じます。(あくまでも時間の使い方、という意味で)
今、そしてこれからは、技術の進歩で自分の仕事のパイは確実に小さくなる。しかも想像以上の速さで。誰もが小さくなったパイの上で自分の仕事をいかに続けるかを考えていかなければいけなくなるような気がします。個人も、多分、企業も。
そして、技術の進歩で、個人には仕事以外の時間(余白の時間)が増えていく(それを望めば増やすことができる)。その余白をどう使っていくかが一人ひとりの課題になってくるんじゃないかな。
余白との戦い、とでも言っておきましょうか。
仕事は「誰かとの、何かとの戦い」だけど、余白は「自分との戦い」になるから、これ、結構しんどい気がする。
さて、なんだかんだ言っている内に、嵐も収まってきたようで…~
そんな昔の話でなくても、私のOL時代((^_^;)昔か)にはあった英文タイプとか和文タイプもワープロに置き換わったし、そろばんや電卓での手計算も今やパソコンの表計算ソフトが代替しています。情報検索だってインターネットで瞬時にできるし、遠くの地域の品物のネット通販で自宅まで届けてくれる時代です。
誰もが(もちろん私も)、小さな機械の画面を通して「全てを」見聞き、知ったような、体験したような気分になれる時代になっちゃった。たった10年くらいでね。
そして今は、AI・人工知能技術を活用して、更に何でもできちゃうという状況
文章を自動で生成するだけではなく、絵画音楽、あらゆるクリエイティブまでも自動生成できるらしいし、誰かの映像や音声を取り込むことでその人本人を表現(配信)して見せることだってできるらしい。
先日、50代のカメラマン(フォトグラファー)歴30年以上と言う方とお話しする機会があり、「今はほぼ仕事がない」、とおっしゃってました。
「昔は性能の良いカメラやレンズを大きなカバンに入れて取材先に行って、写真を撮ってなんぼと言う仕事が結構あったものなんだけどね。今はスマホにあらゆる装備が揃っているので、素人でもそこそこの写真が撮れちゃうからプロのフォトグラファーっていらないんだよ」っておっしゃってました。
その方は雑誌に自分のコラムも持っていたし、自分の作品の特集が載った雑誌をとてもたくさん持ってらして、それらを懐かしそうに眺めていました。30年以上関わったというその仕事はその人の人生そのものに違いなく、人生そのものだった仕事の需要がなくなるという事は、人生そのものを否定された気持ちになってしまったのかもしれません。。
これはほんの1つの例に過ぎなくて、私の知らないところで100年前と同じように需要の縮小で消えつつある(パイが小さくなっている)職業はもっとある、これからも増えていくんだろうな、と感じざるを得ませんでした。
ところで、「仕事が自動化されたら仕事をする時間が減るから、その分自分の時間が確保できるよね、ラッキーじゃん♪」なんて思う人はひょっとしたら実はそれほど多くなくて、自動化されることで残った(余った)時間にはまた別の仕事をねじ込む、という結果になっているのが今の働き方(企業的働かせ方)だと思うのです。
別の仕事をしてもらうことで会社の利益も増えるし、場合によってはあなたの給料もそれで増えるし(多くの場合それはない)、と言う理由で。
個人でも、タイミーなんてサービスが生まれているのにはそういう背景があるんだと思うなぁ。
でもさ、日が出たら動き、日が沈んだら休む、という生き物本来の活動(夜行性の生き物だって日中は休むのよ)を考え、それを人間に当てはめれば、その活動部分の何割かが自動化されて「何もしなくていい時間(余白)」ができれば、自分のためだけの時間に当てるのは当然じゃないかなって考えるのですよね。動物行動学の本に、狐だったか、お腹がいっぱいになったら"お仕事"はおしまい、後は遠くまで遊びに出かけるって文章を読んだことがありましたよ。で思い出したのが銀行で働いていた親族の話。「昔は午後3時に終わって、家に帰って子供の宿題手伝ったりしてたよ。転勤も多かったから地方の街をいっぱい楽しんだねー、特に飲み屋とか」なんて言ってました。
高度成長期の日本を支えてきたビジネスマンの話だから、それなりの大変さや苦労もあったんだろうけれど、今に比べればまだ人間らしい(生き物らしい)生活かも、とも感じます。(あくまでも時間の使い方、という意味で)
今、そしてこれからは、技術の進歩で自分の仕事のパイは確実に小さくなる。しかも想像以上の速さで。誰もが小さくなったパイの上で自分の仕事をいかに続けるかを考えていかなければいけなくなるような気がします。個人も、多分、企業も。
そして、技術の進歩で、個人には仕事以外の時間(余白の時間)が増えていく(それを望めば増やすことができる)。その余白をどう使っていくかが一人ひとりの課題になってくるんじゃないかな。
余白との戦い、とでも言っておきましょうか。
仕事は「誰かとの、何かとの戦い」だけど、余白は「自分との戦い」になるから、これ、結構しんどい気がする。
さて、なんだかんだ言っている内に、嵐も収まってきたようで…~
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