第35回大阪春の演劇祭りの皮切りの上演です。作者は沈虹光さんで、中国の方です。もちろん日本語に訳されて(訳 菱沼彬晃)います。演出はベテランの坂手日登美さんです。Aチーム、Bチームに分かれ、計5回の公演です。わたしは3日のマチネーでしたのでBチームのお芝居でした。小屋はドーンセンターの一階のパフォーマンススペースで、いささか狭く、どんな道具立てにされるのか、楽しみにしていました。間口5間 、奥行き2間ちょっとを、狭さを感じさせない道具立てでした。下手から、団地の階段、ドアを挟んでリビング、左奥が方先生の部屋へ通じるドア、バルコニーに出るサッシと続き、トイレのドア、キッチンへ通じる廊下の設定。上手はドア付きの切り出しを挟んで、劉強(リュウ チャン)米玲(ミーリン)の部屋。実にコンパクトに過不足のない道具立てでした。
【楽しくて、難しいリアリズム】さて、中味です。長江沿いの2LDKの団地にルームシェアリング(共同生活)をしている元小学校の先生だった方(ファン)女史、何事にも一言多い、62歳のおばさん。そして劉強、米玲の30代の夫婦。いつもイザコザが絶えず、夫婦は、面白半分で、「伴侶を求む」と、雑誌に方先生の名前で広告を出します。方先生が結婚すれば、自分たち夫婦だけで、この2LDKが全部使えるとの企みであります。ところがこの広告を見て、定年間近の、長江を上り下りする船の高船長が花束を抱えてやってくる、何も知らない方先生との出会いは、チェーホフの「熊」や「結婚の申し込み」を思わせる、軽妙で、ユーモアに溢れたやりとりです。最初は手厳しく高船長を追い出した方先生だが、ドラマの進展の中で、しだいに高船長に惹かれていく。劉強と米玲夫婦も、ケンカしたり、ヨリをもどしたり。そこに二人の仕事仲間である雷子(レイツ)や、方先生と高船長のことに興味を持って取材に来るテレビ局のスタッフなど、人と事件な絡め方が実に上手く、その絡みにより、それぞれの登場人物の性格、人間性が説明ではなく、ドラマとして描かれており、同業の劇作家として、とても良い刺激をうけました。役者さんたちも演出の意図をよく汲み取り、こういう芝居にありがちな、無理で不自然な、今風のデフォルメや軽薄なギャグなどなく。自然な演技で、作者が持っている、人間への温かい思いが伝わってきました。素直でヒューマンなリアリズムが、そこにはありました。できたら低迷している大阪府高校演劇連盟の先生や、生徒諸君にも観ていただきたい作品でありました。
しかしリアリズムというのは難しいものですね。みなさん好演でしたが、ところどころで惜しいところがありました。なぜ怒るのだろう、笑うのだろう、泣くのだろう……感情や、行動の変化になる演技が、デッサンしきれていません。例えば、業を煮やした高船長、止めてくれるのを待ってしまっていました。ドアの前で、ほとんど足踏みになってしまいました。船乗りらしく決然とドアを開けて階段まで行ってもよかったと思いました。その方が止める方はもっと強い力で止められ、芝居にアクセントがついたと思いました。米玲と、劉強がケンカして和解するところなど、役としてではなく、個人の恥じらい、ためらいが出てしまい、互いに抱き合うところなど、演技として弱く、せっかく芝居の中に入り込もうとしていた観客が冷めてしまいました。
他にも何カ所か、デッサン仕切れていない演技がありましたが忘れてしまいました。健忘症というわけではないのです。大きなところで、演出も演技もしっかりしていて、きちんと最後のカタルシスへ観客をひっぱっていってくれたからです。
金曜の昼としては、上々の入りでした。劇団が長い演劇活動で、確実に固定した観客をつかんでいる証拠です。ただ、わたし(58歳)より若い観客があまり見あたりませんでした。演劇を目指す若い人たちは、こういう芝居を観ておくべきだと思いました。この芝居は良い意味で定石通りなのです。本も演出も手堅く、ところどころ「あれ?」というところがありましたが、基本のデッサンは骨太でした。こういうリアルなデッサン力は貴重です。これからもこういうリアルで、「人間て、いいなあ」と感じさせてくれる芝居を見せてください。
最後に一つだけ……長江の大きさを感じさせて欲しかったです。この本の人間を見る目に繋がります。なんと言っても広いところでは向こう岸が見えません。明治時代に日本にやってきた中国の人が瀬戸内海を見て「日本にも大きな川があるじゃありませんか!」と言ったぐらい、長江は大きいです。その大きさと、ゆったりした流れは、大人(たいじん)の風格と優しさを感じさせます。演技か演出で、感じさせて欲しいと願うのは、大河と言えば淀川程度の想像しかできない、せせこましい大阪人だからかもしれませんが。
劇作家 大橋むつお