ここは世田谷豪徳寺 (三訂版)
第120話《牛乳が切れてまねき猫》釈迦堂一葉(由紀子) 
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「牛乳きれてるよぉ」
亭主が平板な声で言った。若いころは落ち着いたバリトンに惚れたものだけど、今はただの鈍いオヤジにしか見えない。
「さつきじゃないのぉ? スコットランド人を助けたとかなんとか言いながら冷蔵庫開けてたから」
今日は日曜だ……けれど、亭主は図書館勤務なので仕事がある。今からコンビニに買いに行っては出勤に間に合わない……こともないんだけど面倒だ。
「……インスタントコーヒーにしとくか」
「ペットボトルのがあったわよぉ……」
「……ないぞぉ」
「ええ、ペットボトルのも空なの?」
「さくらだなぁ、昨夜は遅くまで本読んでたみたいだからなあ」
あいかわらず平板な声でそう言うと自分でスクランブルエッグを作り始めた。やや脂肪肝なので油を控えてレンジでスクランブルエッグを作っている。
「さくらだなぁ、昨夜は遅くまで本読んでたみたいだからなあ」
あいかわらず平板な声でそう言うと自分でスクランブルエッグを作り始めた。やや脂肪肝なので油を控えてレンジでスクランブルエッグを作っている。
なるほど、これなら油使わずにすむけど、あとでしこたまマヨネーズを入れたら同じことだと思う。だけど、男のこういうこだわりにはチャチャを入れない方がいいのは30年も夫婦やってれば分かる。
「行ってきまーす」
鉋くずのような平板声で亭主は出勤。娘たちは昼近くまで寝てるだろうから、ここからはわたしだけの時間。
「行ってきまーす」
鉋くずのような平板声で亭主は出勤。娘たちは昼近くまで寝てるだろうから、ここからはわたしだけの時間。
あんまり……ほとんど売れていないけど、これでも作家の端くれ。来月末までと期限を切られた短編のプロットを考える。洗濯はそれから、娘二人の目覚まし代わりにかけてやればいい。
今日は宮沢賢治の命日……それだけで、いい話が……浮かんでこない。
だいたい、この作家の大先輩の命日も、朝一番に見た新聞のコラムから。
今日は宮沢賢治の命日……それだけで、いい話が……浮かんでこない。
だいたい、この作家の大先輩の命日も、朝一番に見た新聞のコラムから。
アイデアが浮かばないときは、やたらに他のことがしたくなる。たっぷりの牛乳が入ったカフェオレが飲みたくなる。で、先ほどの亭主の牛乳のことなど、すっか忘れて、お財布掴んで駅前のコンビニを目指す。
そのコンビニの前で運命に出会ってしまった。
直観で、ジョバンニだと分かってしまった!
チノパンにカーキグリーンのシャツ。髪は自然な褐色で、憂いを湛えた横顔は、まさにジョバンニ。こんな朝っぱらから銀河のお祭りに行くわけでもないだろうけど、なんだか気になってあとを着けてしまう。
そのコンビニの前で運命に出会ってしまった。
直観で、ジョバンニだと分かってしまった!
チノパンにカーキグリーンのシャツ。髪は自然な褐色で、憂いを湛えた横顔は、まさにジョバンニ。こんな朝っぱらから銀河のお祭りに行くわけでもないだろうけど、なんだか気になってあとを着けてしまう。
ジョバンニは、路線図を見て切符を買った。豪徳寺に来て間もない子なんだろうか、不慣れな様子がとても初々しい。
どうしようか……と思ったら、駅のまねき猫と目が合ってしまう。
――いまなら間に合う――
そう言って、つんつん上げた手でホームへのエスカレーターを指し示す。
それで、ついスイカを使って改札をくぐってしまう。
で、けっきょく渋谷まで付いてきてしまった。
まだ渋谷は9時をまわったところで、渋谷としては一番閑散とした時間だ。ジョバンニはぐるっと駅前を見渡すとハチ公の近くに寄った。
まだ渋谷は9時をまわったところで、渋谷としては一番閑散とした時間だ。ジョバンニはぐるっと駅前を見渡すとハチ公の近くに寄った。
わたしの中で妄想が膨らむ。
これはカムパネルラと待ち合わせているに違いない。
こういう追跡観察は、程よく距離を取って付かず離れずが大事だ。わたしは視野の端でジョバンニを捉えてカムパネルラが現れるのを待った。
5分ほどして……現れた!
男の子ではなかったけど、サロペットが良く似合う女の子だ。
こういう追跡観察は、程よく距離を取って付かず離れずが大事だ。わたしは視野の端でジョバンニを捉えてカムパネルラが現れるのを待った。
5分ほどして……現れた!
男の子ではなかったけど、サロペットが良く似合う女の子だ。
わたしは年甲斐もなく完全に銀河鉄道の世界に入り込んでしまった。
そこに、洗いざらしのシャツのオッサンが二人に近寄って、一言二言。すると、とたんに二人はジョバンニでもカムパネルラでもない、ただの若者になってしまった。
そして、なぜかか、わたしに近寄ってきた。
「すみません、僕たちテレビの撮影なんです。まわりの人たちに意識されないように、遠くから撮ってるんですけど、オバサン、豪徳寺からずっと付いてこられたでしょ。すみませんけど、被っちゃうんで、ご遠慮願えませんか」
「え、テレビの撮影!?」
「はい、こういうの撮ってます」
オッサンは、丸めた台本を見せた。『渋谷銀河鉄道』と書かれ、銀河放送のロゴが入っていた。
「どうもすみませんでした。良い雰囲気の子だったんで、つい……あ、わたし、こういうものです」
普段めったに使わない名刺を出した。
「あ、作家の釈迦堂一葉さんだったんですか。おーいみんな、こっちこっち!」
二人の役者さんの他にもカメラマンや音声さんなどが集まってきた。で、5分ほど立ち話して別れた。
「あーあ、なんだテレビの撮影だったのか」
独り言ちて一瞬空を見上げ、視線を戻すと、撮影班の姿はどこにもなかった。全部で10人近くいた人たちが忽然といなくなった。
え、ええ……?
冷静に考えたら銀河放送なんて聞いたこともない。
そこに、洗いざらしのシャツのオッサンが二人に近寄って、一言二言。すると、とたんに二人はジョバンニでもカムパネルラでもない、ただの若者になってしまった。
そして、なぜかか、わたしに近寄ってきた。
「すみません、僕たちテレビの撮影なんです。まわりの人たちに意識されないように、遠くから撮ってるんですけど、オバサン、豪徳寺からずっと付いてこられたでしょ。すみませんけど、被っちゃうんで、ご遠慮願えませんか」
「え、テレビの撮影!?」
「はい、こういうの撮ってます」
オッサンは、丸めた台本を見せた。『渋谷銀河鉄道』と書かれ、銀河放送のロゴが入っていた。
「どうもすみませんでした。良い雰囲気の子だったんで、つい……あ、わたし、こういうものです」
普段めったに使わない名刺を出した。
「あ、作家の釈迦堂一葉さんだったんですか。おーいみんな、こっちこっち!」
二人の役者さんの他にもカメラマンや音声さんなどが集まってきた。で、5分ほど立ち話して別れた。
「あーあ、なんだテレビの撮影だったのか」
独り言ちて一瞬空を見上げ、視線を戻すと、撮影班の姿はどこにもなかった。全部で10人近くいた人たちが忽然といなくなった。
え、ええ……?
冷静に考えたら銀河放送なんて聞いたこともない。
念のためスマホで検索。
やはり出てこない。
だいいちあたしのことを作家だと知っている人などほとんどいないのに、あの撮影班は、わたしの作品をかなり読んでいる形跡があった。
まあ、牛乳が切れていたからおこった奇跡だと、思えるほどの大人子どもなわたしです。
そうだ、お洗濯しなくっちゃ!
急いで豪徳寺に戻る。
まあ、牛乳が切れていたからおこった奇跡だと、思えるほどの大人子どもなわたしです。
そうだ、お洗濯しなくっちゃ!
急いで豪徳寺に戻る。
改札を出てまねき猫、微妙に目をそらせたような気がした。
☆彡 主な登場人物
- 佐倉 さくら 帝都女学院高校1年生
- 佐倉 さつき さくらの姉
- 佐倉 惣次郎 さくらの父
- 佐倉 由紀子 さくらの母 ペンネーム釈迦堂一葉(しゃかどういちは)
- 佐倉 惣一 さくらとさつきの兄 海上自衛隊員
- 佐久間 まくさ さくらのクラスメート
- 山口 えりな さくらのクラスメート バレー部のセッター
- 米井 由美 さくらのクラスメート 委員長
- 白石 優奈 帝都の同学年生 自分を八百比丘尼の生まれ変わりだと思っている
- 原 鈴奈 帝都の二年生 おもいろタンポポのメンバー
- 坂東 はるか さくらの先輩女優
- 氷室 聡子 さつきのバイト仲間の女子高生 サトちゃん
- 秋元 さつきのバイト仲間
- 四ノ宮 忠八 道路工事のガードマン
- 四ノ宮 篤子 忠八の妹
- 明菜 惣一の女友達
- 香取 北町警察の巡査
- クロウド Claude Leotard 陸自隊員
- 孫大人(孫文章) 忠八の祖父の友人 孫家とは日清戦争の頃からの付き合い
- 孫文桜 孫大人の孫娘、日ごろはサクラと呼ばれる
- 周恩華 謎の留学生