新・ここは世田谷豪徳寺・20(さつき編)
≪トーマス・ブレーク・グラバーの憂鬱≫
もう少しで轢き殺すところだった。
数秒……ハンドルに伏せた顔を上げられなかった。
そして顔を上げたら、轢かれかけた本人がスタスタ歩いていく後ろ姿が目に入ったではないか!
同じゼミのトム。
「トム、何か言ったらどうなのよ、飛び出してきたのあんたなんだから!!」
思いのほか大きな声になった。トムは初めて気が付いたようにポカンと振り返った。
「……どうしたの、さつき?」
こいつは、まだ分かっていない。
「急に人の車の前に飛び出してきて、挨拶もないわけ!?」
「え、ボクが?」
「いくら、あんたのボンヤリが原因でも、轢いちゃったりしたら車の過失になるんだからね!」
「ボクが飛び出した? さつきの車の前に……?」
「そうよ、あたしのゴールド免許に傷つくとこだったわよ!」
トムは、スタスタやってきて、覗きこむようにして言った。
「このミニカーじゃ跳ね飛ばされることはあっても轢かれることはない。物事は正確に言わなきゃならないよ」
怖い顔で、それだけ言うと足長のイギリス人は、また歩き出した。
「トム、ちょっ!!」
これが間違いだった。様子がおかしいので、つい声を掛けて助手席に乗せるはめになった。
「……そういうことだったのか」
事情が呑み込めたのは、ゼミをサボって紀国坂にさしかかったころだった。トムは、正式にはトーマス・ブレーク・グラバーという。ゼミの自己紹介で、この名前を聞いて「え!?」と声を上げたのは、あたしと先生だけだった。
トーマス・ブレーク・グラバーと言えば、幕末に竜馬の海援隊や薩長相手に武器の商売をやってがっぽり儲けたイギリス人だ。それと同姓同名だったので、あたしと先生はたまげた。他の学生はグラバーそのものを知らなかったか、知っていても「幕末の」という冠むりが付かなければ思い出せなかった。まして、フルネームで知っていたのはあたしと先生だけだった。
そのあたしでも、トムがスコットランドの出身で、今日が特別な日であることは理解していなかった。
ゼミをサボるについても一応先生に電話はしておいた。
「今日はトムにとっては特別な日なんだ。欠席にはしないから付き合ってやってくれないか」と、頼まれた。
で、ただでもガタイのでかいトムを折りたたむようにして、ホンダN360Zの助手席に押し込んだ。
「じっとしていられないから、どこでもいいから走って」
で、走っているわけ。その間にトムは問わず語りに事情を話した。
トムはイギリスの北1/3あたりにあるスコットランドのエジンバラに住んでいる。日本の京都と姉妹都市……でも分かるようにエジンバラはスコットランドの古都。このエジンバラを首都としてスコットランドはイギリスからの独立をはかり、むこうの18日、こちらの深夜から未明にかけて住民投票が行われ、あの大英帝国本土の一部が無くなるかもしれないという事態なのだ。投票権はスコットランド在住の者しか与えられない。トムのようにスコットランドに住んでいなければ投票権がない。逆にスコットランドに住んでいれば外国人でも投票権がある。
「考えてみてよ、日本で言ったら九州が独立するようなものなんだよ」
「あり得ないわよ、そんなこと」
「日本人は呑気だな、これ見なよ」
トムのスマホには沖縄の新聞記事が出ていた。そこには……。
沖縄の独立を目指そう! と、一面で取り上げていた。ちょっとびっくりしたが、あり得ない話だと思った。
「イギリスでも、そう思ってたんだよ。1990年代までは……それが現実になっちゃった」
「そうなんだ……で、投票できるとしたら、トムはどっち?」
「分からない、両方の気持ちが分かるから」
この優柔不断な答えを聞きだしたのは横浜の山下公園だった。雰囲気のないことにトムは焼き芋を買ってきて、二人並んで食べている。
ここは、あたしの大好きな『コクリコ坂から』の主人公メルと俊が自分たちの未来を不安交じりに語り合う聖地なんだぞ。
思いのほか遠くの汽笛が大きく響いた。トムはその音に紛らわせてオナラをした。風下にいなければ気づかないところだった。
トムの憂鬱はよく分かったけど、デリカシーのないスコットランド人だ……!