真凡プレジデント・85
もとより我らは羽柴家の藩屏でござる。
静かに、しかし凛とした声音で茂吉……いや、日向守さまはおっしゃった。
佐治家の書院に通され、あさひさんを離縁して家康さんに嫁がせるという秀吉さんの考えを伝えた。
いくら秀吉さんの考えとは言え、日向守さまにはお辛い話に違いない。
二十年以上連れ添った恋女房と別れてくれろと、藪から棒に言ったのだ。
それを顔色も変えずに聞き終ったあとで、まるで生まれつきの名家の当主のように、あるべき応えをなさった。
「羽柴家、天下万民のためであれば、この日向に否やはござらぬ。さすがは天下の太平を祈念して止まざるお方でござる。さすれば、あさひには某から申し伝えまするによって、暫時これにてお待ち下され」
「日向守さま」
石田さんが声をかけ、立ち上がりかけた日向守さまは静かに座り直された。
「主秀吉は、こたびのことで日向守さまに五万石の加増をなされます」
「よかった……」
ちょっと意外。
日向守さまにはお辛い話であるはずなのに、うすく笑みさえ浮かべて「よかった……」はないだろう。
「加増の話を先にされておれば、この佐治日向守は五万石目当てに離縁すると思われるところでござった。義兄上さまのありがたいお申し出なれど、加増の儀は平にご容赦をとお伝え下され。されば、暫時中座いたしまする」
軽く頭を下げると、日向守さまは奥に下がられた。
「感服いたした……」
石田さんが、珍しく素直に感動している。
わたしとすみれさんはショックだ。
秀吉さんは、天下人になりかけた今でも、丸出しの尾張言葉で、口の悪い大名たちは「禿鼠のくせにみゃーみゃー鳴きよる」などと陰口を叩いている。それを気にもかけない秀吉さんも偉いけど、茂吉さんのキチンとした大名としての風格……わたしたちにはショックだ。
「これは五万石では足りない、八万石は用意して差し上げねば……」
石田さんは、聡明な頭脳で羽柴家の領地を頭に浮かべ、八万石をひねり出す算段にかかった。
「……よし、これでなんとかなろう」
石田さんが膝を叩いた時、奥の方から尾張弁で諍う声が聞こえてきた。
「あれは……」
すみれさんが顔色を変える、石田さんは腕組みして目をつぶった。
少しあって、御家老さんが現れた。
「御台所様も合点為されましたよし、お伝えするように仰せつかってまいりました」
それだけを述べると、御家老さんは蛙のように平伏した。
「承知いたしました」
すみれさんが短く返答して、我々は退出。
大坂城の天守が四天王寺の甍の向こうに見えたころ、ふと、不思議になった。
「日向守さま……どんなお顔をなさっていたかしら?」
「尾張の名家佐治家当主として相応しい武者ぶりでございましたよ」
「それは……」
石田さんの感心ぶりは分かっている、立派なお殿様ぶりだった。
でも、お殿様ではなく、茂吉さんとしての顔……思い出せない。
帰城して報告すると秀吉さんは金扇をハタハタさせながら感心し「茂吉には十万石をくれてやろう!」と叫んだ。
二月がたち、あさひさんが家康さんに輿入れすると、日向守さまは忽然と屋敷から姿を消した。
家来たちを始め羽柴家からも捜索の人数が出たが、摂河泉のお膝元はもとより、尾張まで足を延ばした者たちも見つけ出すことはできなかった。
佐治家は、先代当主の血筋の若者が後を継ぎ江戸期一杯を大名として続き、後年、養子に入った者が日本有数の洋酒メーカーを起こした。
「さ、つぎ行きましょうか」
ビッチェに戻ったすみれさんが明るく言って、この時代から去ることになった。
あ……
去り際に、一瞬日向守の顔が浮かんだ気がしたけど、昼寝の夢のように儚く、きちんと像を結ぶ前に消えてしまった。
☆ 主な登場人物
- 田中 真凡 ブスでも美人でもなく、人の印象に残らないことを密かに気にしている高校二年生
- 田中 美樹 真凡の姉、東大卒で美人の誉れも高き女子アナだったが三月で退職、いまは家でゴロゴロ
- 橘 なつき 中学以来の友だち、勉強は苦手だが真凡のことは大好き
- 藤田先生 定年間近の生徒会顧問
- 中谷先生 若い生徒会顧問
- 柳沢 琢磨 天才・秀才・イケメン・スポーツ万能・ちょっとサイコパス
- 北白川綾乃 真凡のクラスメート、とびきりの美人、なぜか琢磨とは犬猿の仲
- 福島 みずき 真凡とならんで立候補で当選した副会長
- 伊達 利宗 二の丸高校の生徒会長
- ビッチェ 赤い少女
- コウブン スクープされて使われなかった大正と平成の間の年号