今回は前々回の「中国共産党 暗黒の百年史」(本書)の書評の続編であり、本書に記された中国の反日運動に関する石平氏の見解について考察する。
以下、石平氏の「中国の反日運動」観をかいつまんで紹介する。(青字)
1989年の天安門広場における大虐殺事件で、中国は世界から孤立し、西側諸国による経済制裁によって、経済崩壊が起こりかねない状況にあった。その中国を救ったのは、江沢民総書記などが宮澤喜一内閣に執拗に働きかけて実現させた平成天皇の訪中である(1992年)。
天皇の訪中を契機として、日本は対中制裁を解除し、他の西側諸国も追従した。天皇訪中は中国にとり、その後の発展の突破口となったのである。それからの30年、中國は経済の高度成長をなしとげ、GDPで世界第二位の経済大国となり、日本の安全保障を脅かす軍事大国にのし上がった。
立場が逆転した中国はその後、日本を見下すようになる。1998年に来日した江沢民主席は滞在中、終始威圧的且つ横暴な態度を貫いた。極めつけは、宮中晩餐会で出席者全員が礼服を着用する中、ひとり人民服で列席し、「日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ」と言い放った。
そして、江沢民政権は国民の求心力を高める方策として、反日運動を中心とする愛国主義精神高揚運動を推進した。日本を悪魔的存在ときめつけ、メディアを利用して国民に日本への憎悪の感情を煽り立てた。愛国を題材にする歌、本、映画が作られ、学生たちは全国に350ヵ所ある抗日記念館を見学することを義務づけられている。
2005年、国連のアナン事務総長が日本の常任理事国入りを示唆すると、中國各地で数万人単位の暴動が起き、北京や上海では日本の公館襲撃事件に発展した。暴徒は日本に対して抱いている人種差別的な偏見と憎悪感情により一種のヒステリーを起こし、日本の常任理事国入りに感情的に反発したのである。この「理由なき反日デモと暴動」は、まさに1990年代以来中国共産党政権が行ってきた反日教育の大いなる成果であり、反日運動の総決算というべきである。
そうした中、習近平国家主席は「中華民族の偉大なる復興」というスローガンを掲げて、アジア支配と世界制覇の野望を露わにした。このスローガンの意味するところは、かつての中華帝国の威光を取り戻し、共産中国を頂点とする新しい「華夷秩序」を形成することである。
今、振り返ってみると、1992年の平成天皇の訪中は、日本にはメリットが少なかった反面、中国にとってはまさに起死回生の策だった。だからといって、中國が日本に感謝したわけではない。むしろ、恩を仇で返す形で反日運動を仕掛けた。それを元中国人が語っていることが興味深い。
では、日本政府はなぜ天皇の中国訪問を受け入れたのか。日本が「お人好し」だったことは確かだが、それだけとは思えない。そこで思いつくのは先の戦争に対する贖罪意識である。
当時の日本は、中國や韓国の言うことは、多少の無理難題でも受け入れようという精神状態になっていたのではなかろうか。天皇訪中(1992年10月)の同年1月、慰安婦日本軍連行説に激昂した韓国人の暴動に対し宮澤首相が何度も謝罪したのは、朝日新聞の嘘を信じたこともあるが、基本的には宮澤氏の深層心理に、戦争に対する贖罪意識があったからだと想像する。さらに、記事を書いた朝日新聞の記者にも贖罪意識があったのだろう。
そもそも、日本国憲法が日本人に贖罪意識を植え付けた。前文の、<平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>は、次のように解釈できる。<悪い戦争を起こした我々悪い日本人は、善人である諸国様の善意にすがって生きさせていただきます>。*
*(注)この解釈は「性善説に蝕まれた日本」(ケント・ギルバー著)からの引用。
さて、コロナ禍が起きなければ、習近平国家主席は2020年3月に国賓として訪日し、天皇にも拝謁していたはずだった。この来日未遂は<お人好し+贖罪意識>に<経済の結びつき>が加わった結果だろう。また数カ月前、中国共産党の結党百周年に祝電を打った日本の政治家が数人いたが、その様は殴られても、コケにされても、揉み手ですり寄っているようで、見苦しいことこの上ない。習近平の高笑いが聞こえてきそうである。
こうした中、米中対立の激化などいろいろな事件が発生し、中國の国家主席が訪日する可能性はなくなった。しかし、経済面での深い結びつきがある以上、中國と今後どう向き合っていくかは日本に課せられた難しい課題になっている。