2016年5月15日(日)
埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第233回例会に参加する。集
合は東武東上線の高坂(たかさか)駅、3組に分かれて10時8分に東口を出発した。
== 七清水せせらぎ緑道を行く ==
線路に平行する住宅地の間の旧道を北へ、古くからお住まいの家が多いようで、それぞ
れの庭にいろいろな花が咲き競う。
民家を改装したらしい喫茶店の広い敷地には、大きなシダレザクラが2本立つ。養蚕を
していたのか、屋根に小屋根を乗せが民家も見られた。
初めて見たキウイの花↑の咲く家もある。眺めていたらご主人に声をかけられ、「キウ
イの下の変わった花は何か知っているか」と問われる。コンニャクの花だった。
T字路を右折して県道344号を信号で渡り、台地上の旧道を東に進む。眼下にリバー
サイドパークのグランドが見下ろせる。
少し先で、林間の踏み跡を上がって背後の墓地から高斉寺(こうさいじ)に入る。墓地
の隅に「史跡 加賀爪累代之墓所」の標石が立ち、そばの墓地にその加賀爪(かがつめ)
一族10人の墓が並んでいた。県の旧跡である。
加賀爪氏は徳川家に仕えて禄高1万石を領し、この地に大きな陣営を置いた領主とのこ
と。加賀爪忠澄は関ヶ原や大阪の役に戦功あり、江戸町奉行に登用されたが、加賀爪直澄
の代に成瀬氏と領地問題を起こし、天和元年(1681)に領地を没収されたという。
それにしても、加賀爪氏という名の領主がこの地を治めていたということは、私は初め
て知った。
本堂は端正な構え、門前にりっぱな庚申塚が立っていた。
南側の道路に出て、すぐ先から高坂台地下を南に延びる「七清水せせらぎ緑道」へ。こ
の周辺の河岸段丘のがけ下に「高坂の七清水」と呼ぶ湧水が続いている。
そばのがけ下に、そのひとつ「高斉寺下の清水」があるが、湧水量は少なそう。
遊歩道沿いは緑が多く、アジサイがもうすぐ開花しそう。ウツギは咲き出していた。
池の横を通過し、キショウブがたくさん咲き出した一帯は「東光院下の清水」。近くの
モミジが、淡い彩りの花を見せる。
東西に走る市道の下をトンネルで抜け、緑道はその先で左へと台地下をカーブする。
カシワバアジサイのつぼみがふくらみ、よく育ったムラサキツメクサが増え、たくさん
花を付けたウツギもある。
緑道が終わり国道407号を横断した左側一帯は折本山公園。広い草地にたくさんのシ
ロツメクサが咲き、その向こうに近年完成した大規模商業団地の建物が見える。
折本山公園の東端まで進んで県道212号を渡り、舌状に延びた正代(しょうだい)の
台地下の歩道に回る。
左側の湿地と調整池では、オオヨシキリのさえずりが賑やか。
台地の斜面にヒョウタンボクが咲き、下草にたくさん咲くのはナヨクサフジのよう。あ
まり見たことのない白い花も咲いていた。
舌状台地の尖端付近で正代の台地に上がり、御霊(ごりよう)神社に向かう。神社近く
の小さな交差点際に、天明元年(1781)と宝暦8年(1758)に亡くなった女性を
供養して建立した、石の地蔵尊があった。
御霊神社は、武蔵国を平定した源義平(みなもとのよしひら)の霊を、この地に館(や
かた)があった地頭の小代行平(しょうだいゆきひら)が祭ったといわれているとのこと。
本殿の背後に、文政13年(1830)造立の道祖神と、不規則な凹みのある石塔が並
んでいた。
南側の石段際には、市の名木で樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mという大
ケヤキが、高く枝を広げていた。
境内背後の西北側地続きに青蓮寺(しょうれんじ)があり、本堂左手に「小代重俊供養
塔」と記された、弘安4年(1281)銘の大きな板石塔婆が木造の建物に祭られている。
ここ正代は、児玉党に属する小代氏が館を構えていたとのこと。4代重俊は勲功により
肥後国(熊本)野原荘(のはらのしよう)の地頭を命じられ、蒙古襲来の防御と領内の争
い鎮圧のために移り住んだが、重俊の仁徳を慕い、また一族の供養のために縁ある小代氏
一族関係者が建立したと記されているという。
正面の石段を下ったがけ下からは「青蓮寺の清水」が湧出し、コンクリート張りの湧水
には大きなコイが泳いでいた。
台地下を西南に向かい、やはりコンクリート張りの「宮鼻の清水」前を通過する。東側
には休耕田の多い田園地帯が広がる。
宮鼻集落の南東端、台地の縁に八幡神社が祭られ、境内には「八幡神社の大ケヤキ」と
呼ぶケヤキの古木が立っていた。
以前は県の木に選定されていて、根回り8m、推定樹齢は約700年以上とか。長くご
神木として親しまれてきたが、幾多の台風などで主幹部が空洞化してしまっているのが惜
しまれる。でも、根元の太さがその歴史を伝えている。
宮鼻集落の西南端にある香林寺は、最近再建したようで、本堂も山門も白木が真新しい。
左手のお堂の前に、文化14年(1817)銘の如意輪観音と享和3年(1813)銘
の馬頭観世音像が並ぶ。六地蔵を祭る、山門横の地蔵堂も新しい。
正午を過ぎたので、大きなドームの見える方角に急ぐ。車の途切れるのを待って九十九
川(つくもがわ)の北側で国道407号を横断する。国道際に「近衛師団長浅香宮殿下演
習御統監之地」と記された石碑が立っていた。
九十九川を渡り、南地区体育館も併設されている昼食地の高坂市民活動センターに、12
時26分に着いた。
== 越辺川を渡り坂戸市へ ==
昼食後ミーティングを終えて、13時25分に市民活動センターを出た。南側で国道を
横断し、送電線に平行する田んぼの中の道を南へ。水田に水を入れる時期になったようで、
道路沿いの流れにはきれいな水が流れている。
越辺川の左岸を越えて、新しい木橋の島田橋を渡る。以前は時代劇などのロケにも使わ
れた趣ある木橋だったが、近年の水害で流され架け替えられたもの。
右岸堤防を下った路傍には、地蔵尊など10数基の石塔が並んでいた。
越辺川と水田に周囲を囲まれた島田集落に入り、東に向かう。豊富な屋敷林に囲まれた
民家が多く、長い生け垣に囲まれた敷地の広い民家も目に付く。
島田囃(しまだばやし)の山車(だし)車庫の横を通過し、集落の東端付近から集落を
出て、広々とした田園地帯を南下する。水入り前の田んぼが多いが、中には田植えを終え
た水田もある。
ほぼ真っ直ぐに進み、自然堤防のままの飯盛川の土手に上がる。豊富な草に覆われた堤
防は、春先に黄色の花で彩られたと思われる実のついたナノハナが多い。
次の橋まで西進して車道を横切り、すぐ先の歩道橋を渡って南側の坂戸市総合運動公園
に入る。2004年の第59回国体のソフトボール競技会場になったという、野球場のネ
ット裏観覧席で、暑くなった日射しを避けて休憩した。
そばの坂戸市のマスコットキャラクター像の立つ池の前で記念撮影をして、公園の南西
側へ。
園路をたくさんのちびっ子を乗せた豆自動車が走り、その先の広場では「第13回さか
ど民商まつり」が終わろうとしていた。
バザーの間を抜け、緑陰で休む人、終わりを告げる中央舞台など、市民で賑わう会場を
一巡して入口に戻り、会場を後にする。
南側をU字状に回って西進して片柳集落に入った。ヒノキの境内林に囲まれた飯盛神社
で小休止する。
飯盛川を渡って芦山町の新しい戸建て住宅街を進み、ゴールの北坂戸駅に14時53分
に着いた。
(参加 12人、天気 曇後晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東松山、川越北部、
歩行地 東松山市、坂戸市、歩数 21,200)
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埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第233回例会に参加する。集
合は東武東上線の高坂(たかさか)駅、3組に分かれて10時8分に東口を出発した。
== 七清水せせらぎ緑道を行く ==
線路に平行する住宅地の間の旧道を北へ、古くからお住まいの家が多いようで、それぞ
れの庭にいろいろな花が咲き競う。
民家を改装したらしい喫茶店の広い敷地には、大きなシダレザクラが2本立つ。養蚕を
していたのか、屋根に小屋根を乗せが民家も見られた。
初めて見たキウイの花↑の咲く家もある。眺めていたらご主人に声をかけられ、「キウ
イの下の変わった花は何か知っているか」と問われる。コンニャクの花だった。
T字路を右折して県道344号を信号で渡り、台地上の旧道を東に進む。眼下にリバー
サイドパークのグランドが見下ろせる。
少し先で、林間の踏み跡を上がって背後の墓地から高斉寺(こうさいじ)に入る。墓地
の隅に「史跡 加賀爪累代之墓所」の標石が立ち、そばの墓地にその加賀爪(かがつめ)
一族10人の墓が並んでいた。県の旧跡である。
加賀爪氏は徳川家に仕えて禄高1万石を領し、この地に大きな陣営を置いた領主とのこ
と。加賀爪忠澄は関ヶ原や大阪の役に戦功あり、江戸町奉行に登用されたが、加賀爪直澄
の代に成瀬氏と領地問題を起こし、天和元年(1681)に領地を没収されたという。
それにしても、加賀爪氏という名の領主がこの地を治めていたということは、私は初め
て知った。
本堂は端正な構え、門前にりっぱな庚申塚が立っていた。
南側の道路に出て、すぐ先から高坂台地下を南に延びる「七清水せせらぎ緑道」へ。こ
の周辺の河岸段丘のがけ下に「高坂の七清水」と呼ぶ湧水が続いている。
そばのがけ下に、そのひとつ「高斉寺下の清水」があるが、湧水量は少なそう。
遊歩道沿いは緑が多く、アジサイがもうすぐ開花しそう。ウツギは咲き出していた。
池の横を通過し、キショウブがたくさん咲き出した一帯は「東光院下の清水」。近くの
モミジが、淡い彩りの花を見せる。
東西に走る市道の下をトンネルで抜け、緑道はその先で左へと台地下をカーブする。
カシワバアジサイのつぼみがふくらみ、よく育ったムラサキツメクサが増え、たくさん
花を付けたウツギもある。
緑道が終わり国道407号を横断した左側一帯は折本山公園。広い草地にたくさんのシ
ロツメクサが咲き、その向こうに近年完成した大規模商業団地の建物が見える。
折本山公園の東端まで進んで県道212号を渡り、舌状に延びた正代(しょうだい)の
台地下の歩道に回る。
左側の湿地と調整池では、オオヨシキリのさえずりが賑やか。
台地の斜面にヒョウタンボクが咲き、下草にたくさん咲くのはナヨクサフジのよう。あ
まり見たことのない白い花も咲いていた。
舌状台地の尖端付近で正代の台地に上がり、御霊(ごりよう)神社に向かう。神社近く
の小さな交差点際に、天明元年(1781)と宝暦8年(1758)に亡くなった女性を
供養して建立した、石の地蔵尊があった。
御霊神社は、武蔵国を平定した源義平(みなもとのよしひら)の霊を、この地に館(や
かた)があった地頭の小代行平(しょうだいゆきひら)が祭ったといわれているとのこと。
本殿の背後に、文政13年(1830)造立の道祖神と、不規則な凹みのある石塔が並
んでいた。
南側の石段際には、市の名木で樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mという大
ケヤキが、高く枝を広げていた。
境内背後の西北側地続きに青蓮寺(しょうれんじ)があり、本堂左手に「小代重俊供養
塔」と記された、弘安4年(1281)銘の大きな板石塔婆が木造の建物に祭られている。
ここ正代は、児玉党に属する小代氏が館を構えていたとのこと。4代重俊は勲功により
肥後国(熊本)野原荘(のはらのしよう)の地頭を命じられ、蒙古襲来の防御と領内の争
い鎮圧のために移り住んだが、重俊の仁徳を慕い、また一族の供養のために縁ある小代氏
一族関係者が建立したと記されているという。
正面の石段を下ったがけ下からは「青蓮寺の清水」が湧出し、コンクリート張りの湧水
には大きなコイが泳いでいた。
台地下を西南に向かい、やはりコンクリート張りの「宮鼻の清水」前を通過する。東側
には休耕田の多い田園地帯が広がる。
宮鼻集落の南東端、台地の縁に八幡神社が祭られ、境内には「八幡神社の大ケヤキ」と
呼ぶケヤキの古木が立っていた。
以前は県の木に選定されていて、根回り8m、推定樹齢は約700年以上とか。長くご
神木として親しまれてきたが、幾多の台風などで主幹部が空洞化してしまっているのが惜
しまれる。でも、根元の太さがその歴史を伝えている。
宮鼻集落の西南端にある香林寺は、最近再建したようで、本堂も山門も白木が真新しい。
左手のお堂の前に、文化14年(1817)銘の如意輪観音と享和3年(1813)銘
の馬頭観世音像が並ぶ。六地蔵を祭る、山門横の地蔵堂も新しい。
正午を過ぎたので、大きなドームの見える方角に急ぐ。車の途切れるのを待って九十九
川(つくもがわ)の北側で国道407号を横断する。国道際に「近衛師団長浅香宮殿下演
習御統監之地」と記された石碑が立っていた。
九十九川を渡り、南地区体育館も併設されている昼食地の高坂市民活動センターに、12
時26分に着いた。
== 越辺川を渡り坂戸市へ ==
昼食後ミーティングを終えて、13時25分に市民活動センターを出た。南側で国道を
横断し、送電線に平行する田んぼの中の道を南へ。水田に水を入れる時期になったようで、
道路沿いの流れにはきれいな水が流れている。
越辺川の左岸を越えて、新しい木橋の島田橋を渡る。以前は時代劇などのロケにも使わ
れた趣ある木橋だったが、近年の水害で流され架け替えられたもの。
右岸堤防を下った路傍には、地蔵尊など10数基の石塔が並んでいた。
越辺川と水田に周囲を囲まれた島田集落に入り、東に向かう。豊富な屋敷林に囲まれた
民家が多く、長い生け垣に囲まれた敷地の広い民家も目に付く。
島田囃(しまだばやし)の山車(だし)車庫の横を通過し、集落の東端付近から集落を
出て、広々とした田園地帯を南下する。水入り前の田んぼが多いが、中には田植えを終え
た水田もある。
ほぼ真っ直ぐに進み、自然堤防のままの飯盛川の土手に上がる。豊富な草に覆われた堤
防は、春先に黄色の花で彩られたと思われる実のついたナノハナが多い。
次の橋まで西進して車道を横切り、すぐ先の歩道橋を渡って南側の坂戸市総合運動公園
に入る。2004年の第59回国体のソフトボール競技会場になったという、野球場のネ
ット裏観覧席で、暑くなった日射しを避けて休憩した。
そばの坂戸市のマスコットキャラクター像の立つ池の前で記念撮影をして、公園の南西
側へ。
園路をたくさんのちびっ子を乗せた豆自動車が走り、その先の広場では「第13回さか
ど民商まつり」が終わろうとしていた。
バザーの間を抜け、緑陰で休む人、終わりを告げる中央舞台など、市民で賑わう会場を
一巡して入口に戻り、会場を後にする。
南側をU字状に回って西進して片柳集落に入った。ヒノキの境内林に囲まれた飯盛神社
で小休止する。
飯盛川を渡って芦山町の新しい戸建て住宅街を進み、ゴールの北坂戸駅に14時53分
に着いた。
(参加 12人、天気 曇後晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東松山、川越北部、
歩行地 東松山市、坂戸市、歩数 21,200)
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