2020年7月25日(土)
新型コロナウィルスが今年の世界を変えなければ、昨日は東京オリンピック開会式の日
でしたが、世界の現状を見ると1年後の開催も危ぶまれる状況です。
一方今月は、九州を初めとして集中豪雨による洪水など「令和2年7月豪雨」と名付け
られた大雨による災害が各地で発生しましt。
中でも、最初に報じられた3週間前の7月4日(土)早朝からの熊本県球磨川沿いの氾
濫などによる被害が特に大きかったように思います。
この球磨川沿いには私は訪れたことがありませんが、中心都市の人吉と聞いて、先ず思
い出したのがプロ野球巨人の川上哲治(てつはる)選手でした。
川上選手は1938年から1958年までの現役時代(戦時中の1943~5を除く)
には「打撃の神様」と呼ばれ、日本プロ野球史上初の2千本安打を達成した強打者で、首
位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回など輝かしい成績を達成しました。
ほかに、シーズン打率3割以上12回は歴代3位タイ、打率ベストテン入り15回は歴
代3位、8年連続打率3割以上は歴代2位タイ、通算猛打賞194回は歴代2位、日本シ
リーズ通算打率3割6分5厘は歴代1位、2千本安打達成1646試合目は史上最速など
の記録も残しています。
さらに引退後は、巨人の監督として1961年~1974年の通算14年で11回の優
勝、その中1965~1973年には不滅の9連覇を成し遂げ、日本シリーズ優勝11回
は歴代最多であり、54歳で引退後は少年野球の育成やNHKの野球解説者としても知ら
れ、2013年10月に93歳で亡くなられました。
監督として9連覇した最初の年、昭和40(1965)年に野球殿堂入りしています。
その川上さんは、大正9(1920)年3月に熊本県球磨郡大村(現在の人吉市南泉田
町)の生まれなので今年は生誕100年になり、今回の豪雨で大きな被害を受けた人吉市
の中心部、人吉城を挟んだ球磨川右岸から300mほどのところが生家だったようです。
その後もあちこちでの豪雨被害の報道が続く中、わが家周辺も雨の日が多いので古い資
料整理などをしていたところ、昭和26(1951)年にもらった川上哲治さんなどのサ
イン入り葉書がみつかりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/1b/fca6e22d2b4ba89b5c21efbb6f8c81b8.jpg)
当時は現在のような厳しいプライバシー問題などは無く、人気の野球選手の住所が少年
雑誌などに掲載されていたので、往復葉書で依頼するとサインして返信してもらえたので
した。
ちなみにこの年、1951(昭和26)年の川上選手の成績は、打率3割7分7厘で首
位打者を獲得しており、出塁率4割5分もリーグ最高、さらにシーズン三振数6もリーグ
最少で現在も最少三進数日本タイ記録になっているようです。
川上選手のほかに、同じ年にもらったプロ野球選手4人のサイン入り葉書がありました。
これは大島信雄投手、1921年生まれでで岐阜商業から慶應義塾大学に入り、戦中戦
後の慶応大のエース兼5番打者や卒業後の都市対抗では大塚産業のエースとして活躍し、
1950年に29歳でプロ野球松竹ロビンスに入団しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/9a/1dc149bd9bb884b5e622b0cf37d52e7b.jpg)
2リーグに分裂した初年に20勝4敗、防御率2.03を記録してセ・リーグ初の最優
秀防御率、最高勝率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分立後の初のリーグ優勝に貢献
しました。
なお、29歳での新人王獲得は史上最年長で、この記録は現在も破られていないようで
す。
文面は、「今年も是非御声援下さい お互いに確(しっか)りやりませう 松竹 大島
信雄」と記されています。
サインをもらった1951年は15勝13敗、防御率2.74を記録しており、翌年か
ら中日ドラゴンスに移籍して1955年まで通算6年の選手生活後は、テレビやラジオの
解説者や評論家として活躍しました。
次は坪内道典(つぼうちみちのり)外野手、1914年生まれで1936年に大東京軍
の結成に参加して後に選手権監督を務め、戦後の1946年から1951年までゴールド
スター金星から中日ドラゴンスに移籍し、中日では助監督兼選手として通算15年の選手
生活を送りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f9/0144defdf703604a2922ef1cd204d76d.jpg)
はがきの文面には、「諸君のご声援のうちに既に第八節の試合も終了致しました お望
みのサインを送ります」と記されています。
坪内選手は、1941年と42年に盗塁王、1946年~1951年の6年連続で四球
数リーグ最高を記録しており、1948年9月に日本プロ野球最初の1000試合出場と
1000本安打を達成し、この年には25試合連続安打も記録しています。
サインををもらった1951年は選手生活最後の年ですが、試合数113と二塁打28
本、四球数14はリーグ最高でした。
引退後は中日監督、西鉄のヘッドコーチと一軍打撃コーチなどを務め、1992年に野
球殿堂入りしています。
ちなみに、坪内選手には声援とサインお願いのはがきを出したのに対し、自らはがきで
返信してもらったもの。ほかの選手には全部往復葉書でした。
これは藤本英雄投手、1918年生まれで日本プロ野球史上初の完全試合を達成、通算
防御率1.90,シーズン19完封、通算勝率6割9分7厘の日本記録保持者で、投手5
冠、シーズン防御率0点台、史上最年少監督(25歳)も務め、1976年に野球殿堂入
りしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/d4/adf4ae18e1e9ea1d2f5aab1cbabefcd6.jpg)
ほかにノーヒットノーラン2回、6試合連続完封勝利、62イニング連続無失点、投手
としてシーズン7本塁打なども記録している大投手です。
最後は平山菊二(ひらやまきくじ)選手、1918年9月生まれで、下関商業学校(現
在の下関商業高校)校時代には2学年下に藤本英雄投手がいたようです。
1937年に巨人に入って戦前戦後の巨人軍で外野手として活躍し、ホームラン性の打
球を外野フェンスによじ登ってキャッチするのを得意としていて、「塀際の魔術師」と呼
ばれました。
前年の1950年に郷里下関を本拠とする大洋ホエールズに移籍し、1953年まで
12年の選手生活を送り、1950年にはプロ野球記録の外野手シーズン最多捕殺24を
記録しています。
平山選手はこの年シーズン当初にけがをして負傷欠場中で、そのお見舞いとサイン依頼
のはがきを出したので、その返信としてもらったものでした。
文面は、「御便りありがたう 足の負傷も殆ど快くなりました 試合出場は六月中旬頃
と思います 今後共宜しく御声援下さいね しっかり勉強して立派な人になって下さい」
と記されていて、表面の消印は昭和26年4月28日になっています。
だが記録を見ると、この年の平山選手の出場試合は3試合で、4打席無安打なので代打
出場にとどまったようです。
ちなみに当時の郵便はがきの料金は2円でした。下は坪内道典選手からのもので、消印
は(昭和)26(1951)年5月25日です。現在の郵便料金は63円なので、当時よ
り31.5倍になっていることになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ba/9d63ecacb6722fcaabb8bb1c6fd38138.jpg)
なお、同じ頃に月刊の少年雑誌「少年クラブ」の懸賞に当選してもらった、「日本最強
チーム絵はがき」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/b8/cb8191d26f164e98dca5c1e0f737fb8e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/40/5358b11530e25864ce04b9f60c7d5c19.jpg)
当時のプロ野球選手のベストナインともいうべき9人を3枚の絵はがきにしたものです
が、外野手3人の絵はがきはなくなっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/55/4f909e97407fbce4d521e45e2283b7a5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/d0/c60a38c23112b83ce4d9ff3a28397694.jpg)
参考までにもう一つ、別のスクラップブックに貼ってあった新聞記事の裏面にあった前
年の1950年度セ・リーグ成績と打撃ベストテンの表。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/99/224f3ca5ede250dd0bb2dd87672bbb0a.jpg)
11月5日までの記録なので、あと1節か2節くらいでリーグ戦終了という終盤の記録。
打撃ベストテンの常連だった川上選手の名がありませんが、この年の打撃成績は3割8厘
だったので、ベストテンにはもう少しの記録で入ってないようです。
もう69~70年も前のことなので、全選手の名前をご存じの方はわずかでしょうね。
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新型コロナウィルスが今年の世界を変えなければ、昨日は東京オリンピック開会式の日
でしたが、世界の現状を見ると1年後の開催も危ぶまれる状況です。
一方今月は、九州を初めとして集中豪雨による洪水など「令和2年7月豪雨」と名付け
られた大雨による災害が各地で発生しましt。
中でも、最初に報じられた3週間前の7月4日(土)早朝からの熊本県球磨川沿いの氾
濫などによる被害が特に大きかったように思います。
この球磨川沿いには私は訪れたことがありませんが、中心都市の人吉と聞いて、先ず思
い出したのがプロ野球巨人の川上哲治(てつはる)選手でした。
川上選手は1938年から1958年までの現役時代(戦時中の1943~5を除く)
には「打撃の神様」と呼ばれ、日本プロ野球史上初の2千本安打を達成した強打者で、首
位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回など輝かしい成績を達成しました。
ほかに、シーズン打率3割以上12回は歴代3位タイ、打率ベストテン入り15回は歴
代3位、8年連続打率3割以上は歴代2位タイ、通算猛打賞194回は歴代2位、日本シ
リーズ通算打率3割6分5厘は歴代1位、2千本安打達成1646試合目は史上最速など
の記録も残しています。
さらに引退後は、巨人の監督として1961年~1974年の通算14年で11回の優
勝、その中1965~1973年には不滅の9連覇を成し遂げ、日本シリーズ優勝11回
は歴代最多であり、54歳で引退後は少年野球の育成やNHKの野球解説者としても知ら
れ、2013年10月に93歳で亡くなられました。
監督として9連覇した最初の年、昭和40(1965)年に野球殿堂入りしています。
その川上さんは、大正9(1920)年3月に熊本県球磨郡大村(現在の人吉市南泉田
町)の生まれなので今年は生誕100年になり、今回の豪雨で大きな被害を受けた人吉市
の中心部、人吉城を挟んだ球磨川右岸から300mほどのところが生家だったようです。
その後もあちこちでの豪雨被害の報道が続く中、わが家周辺も雨の日が多いので古い資
料整理などをしていたところ、昭和26(1951)年にもらった川上哲治さんなどのサ
イン入り葉書がみつかりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/1b/fca6e22d2b4ba89b5c21efbb6f8c81b8.jpg)
当時は現在のような厳しいプライバシー問題などは無く、人気の野球選手の住所が少年
雑誌などに掲載されていたので、往復葉書で依頼するとサインして返信してもらえたので
した。
ちなみにこの年、1951(昭和26)年の川上選手の成績は、打率3割7分7厘で首
位打者を獲得しており、出塁率4割5分もリーグ最高、さらにシーズン三振数6もリーグ
最少で現在も最少三進数日本タイ記録になっているようです。
川上選手のほかに、同じ年にもらったプロ野球選手4人のサイン入り葉書がありました。
これは大島信雄投手、1921年生まれでで岐阜商業から慶應義塾大学に入り、戦中戦
後の慶応大のエース兼5番打者や卒業後の都市対抗では大塚産業のエースとして活躍し、
1950年に29歳でプロ野球松竹ロビンスに入団しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/9a/1dc149bd9bb884b5e622b0cf37d52e7b.jpg)
2リーグに分裂した初年に20勝4敗、防御率2.03を記録してセ・リーグ初の最優
秀防御率、最高勝率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分立後の初のリーグ優勝に貢献
しました。
なお、29歳での新人王獲得は史上最年長で、この記録は現在も破られていないようで
す。
文面は、「今年も是非御声援下さい お互いに確(しっか)りやりませう 松竹 大島
信雄」と記されています。
サインをもらった1951年は15勝13敗、防御率2.74を記録しており、翌年か
ら中日ドラゴンスに移籍して1955年まで通算6年の選手生活後は、テレビやラジオの
解説者や評論家として活躍しました。
次は坪内道典(つぼうちみちのり)外野手、1914年生まれで1936年に大東京軍
の結成に参加して後に選手権監督を務め、戦後の1946年から1951年までゴールド
スター金星から中日ドラゴンスに移籍し、中日では助監督兼選手として通算15年の選手
生活を送りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f9/0144defdf703604a2922ef1cd204d76d.jpg)
はがきの文面には、「諸君のご声援のうちに既に第八節の試合も終了致しました お望
みのサインを送ります」と記されています。
坪内選手は、1941年と42年に盗塁王、1946年~1951年の6年連続で四球
数リーグ最高を記録しており、1948年9月に日本プロ野球最初の1000試合出場と
1000本安打を達成し、この年には25試合連続安打も記録しています。
サインををもらった1951年は選手生活最後の年ですが、試合数113と二塁打28
本、四球数14はリーグ最高でした。
引退後は中日監督、西鉄のヘッドコーチと一軍打撃コーチなどを務め、1992年に野
球殿堂入りしています。
ちなみに、坪内選手には声援とサインお願いのはがきを出したのに対し、自らはがきで
返信してもらったもの。ほかの選手には全部往復葉書でした。
これは藤本英雄投手、1918年生まれで日本プロ野球史上初の完全試合を達成、通算
防御率1.90,シーズン19完封、通算勝率6割9分7厘の日本記録保持者で、投手5
冠、シーズン防御率0点台、史上最年少監督(25歳)も務め、1976年に野球殿堂入
りしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/d4/adf4ae18e1e9ea1d2f5aab1cbabefcd6.jpg)
ほかにノーヒットノーラン2回、6試合連続完封勝利、62イニング連続無失点、投手
としてシーズン7本塁打なども記録している大投手です。
最後は平山菊二(ひらやまきくじ)選手、1918年9月生まれで、下関商業学校(現
在の下関商業高校)校時代には2学年下に藤本英雄投手がいたようです。
1937年に巨人に入って戦前戦後の巨人軍で外野手として活躍し、ホームラン性の打
球を外野フェンスによじ登ってキャッチするのを得意としていて、「塀際の魔術師」と呼
ばれました。
前年の1950年に郷里下関を本拠とする大洋ホエールズに移籍し、1953年まで
12年の選手生活を送り、1950年にはプロ野球記録の外野手シーズン最多捕殺24を
記録しています。
平山選手はこの年シーズン当初にけがをして負傷欠場中で、そのお見舞いとサイン依頼
のはがきを出したので、その返信としてもらったものでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c1/32580bc9b2a3548a3563f068cf1a8d6e.jpg)
文面は、「御便りありがたう 足の負傷も殆ど快くなりました 試合出場は六月中旬頃
と思います 今後共宜しく御声援下さいね しっかり勉強して立派な人になって下さい」
と記されていて、表面の消印は昭和26年4月28日になっています。
だが記録を見ると、この年の平山選手の出場試合は3試合で、4打席無安打なので代打
出場にとどまったようです。
ちなみに当時の郵便はがきの料金は2円でした。下は坪内道典選手からのもので、消印
は(昭和)26(1951)年5月25日です。現在の郵便料金は63円なので、当時よ
り31.5倍になっていることになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ba/9d63ecacb6722fcaabb8bb1c6fd38138.jpg)
なお、同じ頃に月刊の少年雑誌「少年クラブ」の懸賞に当選してもらった、「日本最強
チーム絵はがき」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/b8/cb8191d26f164e98dca5c1e0f737fb8e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/40/5358b11530e25864ce04b9f60c7d5c19.jpg)
当時のプロ野球選手のベストナインともいうべき9人を3枚の絵はがきにしたものです
が、外野手3人の絵はがきはなくなっていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/55/4f909e97407fbce4d521e45e2283b7a5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/d0/c60a38c23112b83ce4d9ff3a28397694.jpg)
参考までにもう一つ、別のスクラップブックに貼ってあった新聞記事の裏面にあった前
年の1950年度セ・リーグ成績と打撃ベストテンの表。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/99/224f3ca5ede250dd0bb2dd87672bbb0a.jpg)
11月5日までの記録なので、あと1節か2節くらいでリーグ戦終了という終盤の記録。
打撃ベストテンの常連だった川上選手の名がありませんが、この年の打撃成績は3割8厘
だったので、ベストテンにはもう少しの記録で入ってないようです。
もう69~70年も前のことなので、全選手の名前をご存じの方はわずかでしょうね。
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