黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

南勢多郡の廃寺・青龍寺

2021-02-04 15:32:44 | 南勢多郡の廃寺

ひめちゃんは小次郎パパと、北の方にお散歩です。

久しぶりにパパと岩神沼です

いつものカモさんいますね

右の道を上ります。

おや、黒い物体が飛び立ちます

もう1羽いたのです

ひとり寂しくここに住んでいるのではなく、もしかしたらカップル?

 

 

「南勢多郡の廃寺」に青龍寺があります。

青龍寺(宗派不明)

深津字三ヶ尻郷994番地に所在した。基壇は地中に埋没し宝塔(赤城塔)や石造物片が多く見受けられる。詳細な資料は残っていないが鎌倉時代の創建と伝わっているが、江戸時代前期までに廃寺になったようである。

 

三ヶ尻で宝塔

そうだ、三ヶ尻の宝塔、高野辺家成夫人の宝塔の所だ

 

宝塔メインでは何度も行ってます。

確かにお寺があった雰囲気でした。

青龍寺の面影を尋ねて、お使いがてら行ってみましょう

県道3号線を西に行き、(前橋市粕川町)女渕西の信号を南に下ります。

ちょっと次の信号を左折、ちょっと路地に入ります。

迷わずに到着です。

こんにちは、お久しぶりです

粕川村時代のスタンプラリーのボックスが、ちょっと寂しい

説明板を確認です。

三ヶ尻赤城塔は県内でも数少ない鎌倉時代の宝塔で、世良田長楽寺、宮城村忠治温泉庭のものとならぶ上野国初期の宝塔である。

そうなんですか

 

最後がちょっと気になります

塔の造立は天台宗と深い係わりがあり、赤城塔の分布が粕川流域に特に多いことなど、赤城南麓地域における中世天台宗の発展を探る上からも注目されている。

 

世良田長楽寺は、中世には臨済宗のお寺でした。

江戸時代初期に、天海によって強引に天台宗に改宗されたといいます。

そうすると、赤城南面の宝塔の分布は、臨済宗というか禅宗の広がりと深い係わりがあったという方が、妥当のような気がします

 

模様が刻まれているようですね。

今までは気がつきませんでした。

格狭間です

基礎に刻まれた蓮弁、ウーン何かあるようにも見えますけどよくわかりません。

 

さて、寺院跡の石造物にご挨拶です

享保、天保の年号が見えます。

秀青法師、覚心沙弥、お坊さんではないのかな?

前掲書には、江戸時代前期には廃寺になっていたとありますけど、江戸時代中期から後期の年号の墓標があります

 

あれ、塔婆が上がってます

西福寺住職とあります。

ここから少し東の方に、西福寺はあります。

何年か前に行ったことがあります。

 

宝塔の後ろ姿です。

向こうの赤い屋根の小さなお堂に行ってみましょう

御眷属守護のお札があります。

前回来た時もありました。

おや、写真を見て気づきました。

神社名があります。

残念ながら、わかりません

さっきの塔婆に西福寺住職とありました。

西福寺の隣には、八坂神社があります。

もしかしたら八坂神社と関係があるかな?

 

高野辺家成の3人の娘は、赤城姫・淵名姫・伊香保姫でしたね

家族みんな、そして従者達も神になったのでしたね

 

ここはゴミ捨て場に隣接していますけど、人が来ることによって、パワースポットとしてのパワーを持ち続けられているのでしょう

 

 

 

追伸

2月5日、お使いついでにお札を確認してきました

この日はよく見えました

「郷社城峯神社」ですって

どこにあるのだろう

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南勢多郡の廃寺・三夜沢赤城神社の神宮寺(後編)

2021-02-02 19:59:57 | 南勢多郡の廃寺

ひめちゃんと獅子丸が、おとうさんを連れてやって来ます

タバサねーちゃんは、都合で1人散歩です。

ひめちゃんと獅子丸が追い越して行きます。

みんなで天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

ひめちゃんと獅子丸は、ケンくんちの方に曲がりました。

タバサねーちゃんも追いかけます。

獅子丸とケンくんは、お互いに「ボクの方が強いんだぞ」と吠え合ってます。

バイバイ、そのうちにひめちゃんだけで来るよ

 

 

 

三夜沢赤城神社に到着です。

 

鳥居の前に、宮城村の文化財の案内があります。

「惣門、下馬」の所を通ってきました

 

赤城神社の由緒書きです。

あったっけ?

古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主祭神に祀り、創建は崇神天皇の御代と伝えられています。

 

 

手水社も、コロナ対応です。

そばに大きなサワラの木があります

そばの説明板には、「推定樹齢250年、樹高28m」とあります。

 

 

右の狛犬です。

こんにちは

この後ろあたりが、東の神宮寺・龍赤寺かな?

「南勢多郡の廃寺」によると

当初は密教僧により成立したようであり真言宗系であったが、善昌寺(新里町)に属し支配を請けていた。後に寛文11年(1671)以降に寛永寺の末寺になり天台宗に改宗した。

普通に考えると善昌寺は真言宗のお寺だったことになります

それにもまして、どうして赤城神社を支配できたのでしょう

 

 

左の狛犬さん、こんにちは

この奥の方に、西の神宮寺・神光寺があったのかな?

 

 

たわら杉の中を、拝殿に向かいます。

この場面は今回の写真がなかったので、昨年10月に訪問したときの画像です。

中世武士団のなかでも大胡氏が赤城神社への信仰が篤かったとあります。

 

 

拝殿で参拝して、あたりを散策です。

このあたりに、赤城塔があるはずですけど、見つかりません

龍赤寺跡に残る宝塔のはずですけど

 

本殿の東側には、石段で登れます。

 

 

本殿の後ろの高台に人影があります

何かあるのかな?

 

あるかなきかの道を上ります。

大きな石宮があって、おばさんがきびだんごのようなものをあげてます

「こんにちは こちらは何様ですか?」

「天神様です。今日は初天神なので カメラは遠慮してください。ご本殿の後ろですから。」

「はい。」

何か曰くありそう

思い切って、今日来訪のわけを話します。

「南勢多郡の廃寺という本に、新里の善昌寺がここにあった神宮寺を支配していたという記述があったのです。驚きの記述で、これは是非面影を探しに行こうと出かけて来たのです

「そうですか。実は我が家は祖父の代まで、ここの神官をしていました。今は別の人がやってますけど。火事になって過去帳等が焼けてしまったので、善昌寺に行って写してきたと聞いています。善昌寺に文書を提出してあったそうです。」

「ええッ、本当ですか

善昌寺が赤城神社を支配していた時代があったのは、本当なのです

おばさんはまだ参りするところがあるということでした。

邪魔をしないように、撤退です

 

 

時間の都合で、神社の西の方は歩いてきませんでした。

昨年の10月の写真です。

駐車場にある剣聖上泉伊勢守の木像です。

ここは上泉伊勢守修練の地とあります。

この奥にはちょっと行けません。

ここらへんが神光寺かな?

 

「南勢多郡の廃寺」によると、

神仏分離により神主増田家の墓地に移された宝塔や五輪塔は14世紀に属するものである。真光寺は以前、真言宗であったが後に善昌寺末になり支配を受け天台宗に改宗した。

 

新里村の善昌寺が、赤城神社の神宮寺を支配していた時代があったなんて

でも、ちょっと裏付けの証言を得られました

 

10月にいただいた御朱印です。

 

10月の参拝は、ちょっと記事にしにくくて、そのまま放置されていました。

今回の参拝待ちだったのです。

不思議な出会いでした

赤城大明神のお引き合わせかな

 

 

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安永3年の百番供養塔(諏訪大明神の御利益?)

2021-02-01 15:25:28 | 蕨沢川物語

ひめちゃんちのニューフイスを紹介します。

シローくんです

この春閉園になる常広寺学園・城山幼稚園から、やって来ました

とりあえず、おとうさんのメダカ桶の番をしてもらってます。

小次郎パパがクンクン、情報収集しました。

ほかのみんなは、関心が無いようです

 

 

ひめちゃんと獅子丸は、諏訪神社の西の高台をめざしてお散歩です。

 

諏訪神社の鳥居前からは、妙義山も見えます。

真っ白な浅間山も見えます。

榛名山もうっすらと白いような感じです。

 

赤城山には、重い雲が垂れ込めています。

ひめちゃんと獅子君は情報収集です。

だれが通ったのかな?

 

高台の中央で右折し、道なりに戻ります。

畑の自生しているロウバイの向こうに赤城山です。

 

神社前に戻りました。

この間お散歩の途中に、2礼2拍1礼をして、鳥居前でちゃんとお参りしている人がいました

ひめちゃん・獅子くん、お参りしよう

ひめちゃんたちは、関心がありません

右手にカメラ、左手に2本のリード、両手が塞がっているので2礼2拍1礼したつもりで、会釈をして通り過ぎます

 

橋のたもとの百番供養塔、少ししつこくみたいなあ

獅子丸が、供養塔と馬頭観音の間をすり抜けていきます

 

しかたなく、ひめちゃんとおかあさんもついて行きます。

あれ、後ろに文字があります

後ろには、やわらかい草があったのです。

 

ひめちゃんもお相伴です。

「安永3年甲午(きのえねうま)星次 卯月吉祥日」、きれいな文字です

まさか裏に文字があるとは、思ってもみませんでした。

そして、安永3年(1774)ですって

 

安永3年は、世良田の毛呂権蔵が『上野国志』を著した年です

毛呂権蔵は、常広寺の「竜骨伝記」を『上野国志』の中に遺してくれたのです。

「竜骨伝記」は焼けてしまったけれど、『上野国志』の記述によって再現されたのです。

奇遇です

さっそく諏訪大明神の御利益かな?

 

江戸時代の後期には、他国に行くのは難しいけれど、国の中では比較的楽に移動できたといいます。

そんな中で、毛呂権蔵がやって来たのです。

そんな中で、百ヶ所の霊場巡りを成し遂げ、記念に百番供養塔を建てた人々がいたのです

 

気のせいか、隣の馬頭観音さんの足下の馬たちも、元気に見えます

 

ひめちゃんたちのお散歩記事が、長くなりました。

南勢多郡の廃寺・三夜沢赤城神社の神宮寺(後編)は、明日にしましょう

 

 

 

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