弁証法性と書くなら、
それはモノ自体の変幻自在の変化・運動性。
弁証法と書くなら、
それは、モノ自体の弁証法性の法則化したモノ。
弁証法性も弁証法も、ただ一つ。
でも、モノ自体が変化してモノ化して、
弁証法性も変幻自在からただの変化・運動性へと変化したなら。
それは、
○○の弁証法性であり、
○○の弁証法と言える。
モノ自体の弁証法性が、
自然の弁証法性へ、
社会の弁証法性へ、
精神の弁証法性へ…
自然の弁証法性から自然の弁証法、
社会の弁証法性から社会の弁証法、
精神の弁証法性から精神の弁証法…
モノ自体は、有っても無いモノ。
その理由は、モノ自体が変化・運動していて、
モノ自体をモノ自体として捉えられないから…
弁証法性は、有っても無いモノ。
それは、
変化・運動性だから、
実体の変化・運動だから、
実体の機能だから…
機能は有っても無いが如く感覚不能。
実体の変化・運動が機能だから、
実体は五感で感覚可能。
機能は五感で感覚不能…。
実態は五感で感覚可能。
実体は五感で感覚不能。
モノ自体の弁証法性は?
自然の弁証法性と
社会の弁証法性と
精神の弁証法性を 通して、
やっとモノ自体の弁証法性へ~
事実から事実の性質へ、
事実の性質から事実の論理性へ、
事実の論理性から個々の弁証法性へ、
個々の弁証法から弁証法の論理性へ、
弁証法の論理性からモノ自体の弁証法性へ、
そこから学問・唯物論的弁証法へ~
言葉遊びが、言葉遊びで、終わらずに、
言葉の労働へと変化・運動できたら…
そこから弁証法が~~~~~~~