トーマス・アルフレッドソン監督、『ぼくのエリ 200歳の少女』、9/4、シネ・リーブル博多にて鑑賞。2010年35本目。
土曜日は午前中仕事だったので(うちの会社、土曜日は中途半端にに休みだったり、半ドンだったりするんですよね。あ、半ドンってわかります?もしかして、方言?)、仕事が終わって、そのまま博多まで映画を観に行くつもりでした。
が、『ぼくのエリ』の前売り券を見事に家に忘れる(ガーン)。前売り券、いつもは財布の中に仕舞ってるんですけど、この映画の前売り券は若干サイズが大きめで、微妙に財布に収まらなかったんです。
で、仕方なくカレンダーのところに貼り付けて、ここならさすがに忘れまいと思っていたのですが、明日のジョー、じゃない、案の定、忘れちゃいました。やっぱり四つ折りにしてでも財布の中に入れておくべきだったか・・・(それは嫌なんだよねぇ)。
というような与太話はそれぐらいにして。
『ぼくのエリ 200歳の少女』、非常によく出来たヴァンパイア映画でした。
作品全体を覆う空気は静謐なのですが、それでいてどこか耽美な匂いが漂ってくるのです。
何しろ主人公オスカーは(金髪碧眼の美少年。はっきりいってヒロインであるエリよりも顔の造りが整っている。)初登場時からいきなり出前一丁、ブリーフ一丁ですよ!それが彼の就寝スタイルらしいんですが(まさかスウェーデン人全員が寝るときブリーフ一丁じゃないでしょうから)、この時点でその手の趣味がある方には涎ものなのではないでしょうか。笑。
ただ、、、よく出来たヴァンパイア映画だからこそ、同時に強く不満も覚えました。
映画に限らずヴァンパイアもの、吸血鬼ものって物語の作者にとって非常に魅力的な素材だと思うんです。
数多のモンスターの中で一番多く漫画化、小説化されてるのではないでしょうか(映画はさすがにゾンビものに劣るかな)。
ただ、自分はそれら吸血鬼を扱った映画や漫画や小説の多くに昔から不満があるのです。
何に不満かというと、吸血鬼は吸血行為によって仲間を増やせるはずなのに、何故かそうしないことに、です(吸血鬼が主人公側だと特に)。
これが自分には不思議でなりませんでした。
自分が吸血鬼だったら手当たり次第にバンバン血を吸っちゃって仲間を増やしますけどね。
吸血鬼が仲間を増やそうとしないのは、それは物語上の必然というより、ぶっちゃけ、仲間が増えすぎたらお話の収拾がつかないから、ですよね。
そこら辺の事情はわからないでもないんですが、だとすれば、きちんと何かしら仲間を増やそうとしないことへの理由付けが必要だと思うのです。それがない吸血鬼ものは全て作者の手抜きのように思えるのです。
『ぼくのエリ』の中でも、エリに噛まれた女性は吸血鬼になるのですが、やっぱりエリはその女性以外の人間を吸血鬼にしようとはしないんですよね。
う~~~ん、何故なんだろう???
まぁもちろんこの作品において、その理由を語ることが物語的に必要かというとそういうわけでは全然ないんですけどね。笑。
あと、『ぼくのエリ 200歳の少女』という邦題について。
自分は普段映画の邦題にあまりケチをつける方じゃないのですが、まぁ配給会社にもいろいろ事情があるでしょうからね、でもこの作品の邦題は変だと思います。
まぁ洋題の『LET THE RIGHT ONE IN』が英語に疎い人には何のこっちゃなので、何かしら邦題を考えなければいけないのはわかるのですが、この邦題は二重の意味で変です。
まず「ぼくのエリ」だと、まるで“エリ”が“ぼく”の所有物か何かのような印象を受けるのですが、実際にはその逆で、どちらかというと、支配者の地位にあるのは“エリ”の方なんです(まぁ吸血鬼だからね)。
それと「200歳の少女」の方ですが、自分はこのサブタイトルから、エリが自分は200歳だと告白するシーンがあるもの、と思ってました。が、そんなシーンはなし。それどころか彼女は自分の誕生日すら知らないという設定なんです。
なので、自分があえて邦題をつけるとしたら、、、今の邦題を生かして、『ぼくとエリ 永遠の少女』かなぁ、、、作品ほど詩的ではないですけどね。笑。
お気に入り度は★★★☆、お薦め度は★★★☆(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
土曜日は午前中仕事だったので(うちの会社、土曜日は中途半端にに休みだったり、半ドンだったりするんですよね。あ、半ドンってわかります?もしかして、方言?)、仕事が終わって、そのまま博多まで映画を観に行くつもりでした。
が、『ぼくのエリ』の前売り券を見事に家に忘れる(ガーン)。前売り券、いつもは財布の中に仕舞ってるんですけど、この映画の前売り券は若干サイズが大きめで、微妙に財布に収まらなかったんです。
で、仕方なくカレンダーのところに貼り付けて、ここならさすがに忘れまいと思っていたのですが、明日のジョー、じゃない、案の定、忘れちゃいました。やっぱり四つ折りにしてでも財布の中に入れておくべきだったか・・・(それは嫌なんだよねぇ)。
というような与太話はそれぐらいにして。
『ぼくのエリ 200歳の少女』、非常によく出来たヴァンパイア映画でした。
作品全体を覆う空気は静謐なのですが、それでいてどこか耽美な匂いが漂ってくるのです。
何しろ主人公オスカーは(金髪碧眼の美少年。はっきりいってヒロインであるエリよりも顔の造りが整っている。)初登場時からいきなり出前一丁、ブリーフ一丁ですよ!それが彼の就寝スタイルらしいんですが(まさかスウェーデン人全員が寝るときブリーフ一丁じゃないでしょうから)、この時点でその手の趣味がある方には涎ものなのではないでしょうか。笑。
ただ、、、よく出来たヴァンパイア映画だからこそ、同時に強く不満も覚えました。
映画に限らずヴァンパイアもの、吸血鬼ものって物語の作者にとって非常に魅力的な素材だと思うんです。
数多のモンスターの中で一番多く漫画化、小説化されてるのではないでしょうか(映画はさすがにゾンビものに劣るかな)。
ただ、自分はそれら吸血鬼を扱った映画や漫画や小説の多くに昔から不満があるのです。
何に不満かというと、吸血鬼は吸血行為によって仲間を増やせるはずなのに、何故かそうしないことに、です(吸血鬼が主人公側だと特に)。
これが自分には不思議でなりませんでした。
自分が吸血鬼だったら手当たり次第にバンバン血を吸っちゃって仲間を増やしますけどね。
吸血鬼が仲間を増やそうとしないのは、それは物語上の必然というより、ぶっちゃけ、仲間が増えすぎたらお話の収拾がつかないから、ですよね。
そこら辺の事情はわからないでもないんですが、だとすれば、きちんと何かしら仲間を増やそうとしないことへの理由付けが必要だと思うのです。それがない吸血鬼ものは全て作者の手抜きのように思えるのです。
『ぼくのエリ』の中でも、エリに噛まれた女性は吸血鬼になるのですが、やっぱりエリはその女性以外の人間を吸血鬼にしようとはしないんですよね。
う~~~ん、何故なんだろう???
まぁもちろんこの作品において、その理由を語ることが物語的に必要かというとそういうわけでは全然ないんですけどね。笑。
あと、『ぼくのエリ 200歳の少女』という邦題について。
自分は普段映画の邦題にあまりケチをつける方じゃないのですが、まぁ配給会社にもいろいろ事情があるでしょうからね、でもこの作品の邦題は変だと思います。
まぁ洋題の『LET THE RIGHT ONE IN』が英語に疎い人には何のこっちゃなので、何かしら邦題を考えなければいけないのはわかるのですが、この邦題は二重の意味で変です。
まず「ぼくのエリ」だと、まるで“エリ”が“ぼく”の所有物か何かのような印象を受けるのですが、実際にはその逆で、どちらかというと、支配者の地位にあるのは“エリ”の方なんです(まぁ吸血鬼だからね)。
それと「200歳の少女」の方ですが、自分はこのサブタイトルから、エリが自分は200歳だと告白するシーンがあるもの、と思ってました。が、そんなシーンはなし。それどころか彼女は自分の誕生日すら知らないという設定なんです。
なので、自分があえて邦題をつけるとしたら、、、今の邦題を生かして、『ぼくとエリ 永遠の少女』かなぁ、、、作品ほど詩的ではないですけどね。笑。
お気に入り度は★★★☆、お薦め度は★★★☆(★は五つで満点、☆は★の半分)です。