ベネディクト・カンバーバッチ主演、モルテン・ティルドゥム監督、『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』、4/10、Tジョイ久留米にて鑑賞。2015年12本目。
ブログの概要に「日々の雑事と趣味と偏見のブログ」とある通り、自分は偏見の持ち主です。さらにいえば差別主義者でもあります。
普段はそれを表に出さないように気を付けていますが(気をつけてこれかよ!と言われそうですが)。
4/1の記事で「嘘をつくこと自体が悪いのではない。(ついて)悪い嘘と善い嘘があるだけなのだ。」というようなことを書きました。
同じようなことは偏見や差別についても言えると思います。
本当に偏見を持つのはいけないことなのでしょうか?
そして差別をするのは良くないことなのか?
自分は決してそうは思わないのです。
よく「差別をするのは良くない」って言いますよね。
自分はこの言葉は正しくないと思うのです。より正確には不完全である。
正しくは「“いわれのない”差別をするのは良くない」と言うべきだと思うのです。
この場合の“いわれのない”とは何の“いわれがない”のかというと、言うまでもなく、「本人が責任を取る」“いわれのない”ということです。
自らの自由意思で選択していない事柄に関して本人の責任を追及するのは酷であるってことですよね。
自らの自由意思で選択していない事柄というのは何かというと、例えば、肌の色であり、性別であり、生まれた環境であり、つまりは自分自身では選びようがないことですよ。
これに対し、「本人が責任を取る“いわれがある”」事柄は何かというと、自らの自由意思で選んだすべての事柄です。自らが選択した結果について責任を取るのはごく当然のことです。
いわれのない差別、いわれのある差別、すべてをごっちゃにして「差別をするのは良くない」と言っている人は、差別について深く考えたことがないのだと思います。もしくは差別というものがよくわかっていないか。
所詮私たち人間は不完全な存在なのです。すべての対象に対して平等に接する、ということは不可能です。対象Aと対象Bに対して扱いに差があるのはごく当然のことです。
大切なのは、差別をする際に、自分の中できちんと差別をする理由が存在するか否か、だと思います。
これといった理由がないのに差別する、気分がむしゃくしゃしていたので差別する、いわれがないとわかっているのに差別する、これらはすべてよくない。
極端な話、溺れている子どもが二人いて、一人が我が子であれば、一つしかない浮き輪を我が子に投げるのはごく当然の選択です。その選択は責められるべきではない。その差別は正当だったといっていい。仮にもう一人の子供が溺れ死んだとしても、です。
前置きがずいぶん長くなってしまいました(いつものことですが)。
自分はあまり表立っては言いませんが、同性愛に対して不寛容な立場を取ります。
自分なりの理由はあります。長くなるので割愛しますが、見た目が気持ち悪いからとか、気に入らないからとか、そんなどうでもいい理由からではありません。
また不寛容な立場を取るといっても別段同性愛者を迫害しようとか、排斥しようとかいうことは考えていません。
なぜそのことを表だって言わないのかというと、世の同性愛者からバッシングをされるのを恐れているから、ではありません。
それをまったく恐れないかというとそんなことはないのですが、自分がより恐れるのは今、ブログに良くコメントをしてくださる方の中に同性愛者がいた場合です。
別にこの人は同性愛者だろうなどといった確証があるわけではないのです。ただ、コメントをしてくださる人すべてのプロフィールを把握しているわけでもないですから。
自分が同性愛に対して不寛容であると公言することで、誰かが来てくれなくなるのは非常に困るのです。
それなのになぜ敢えて公言するかというと、それを明らかにすることなしに自分はこの映画のことを語れないからです。我ながら不器用だと思わないでもありません。
この映画には様々な形の愛が登場します。
例えば少年アランのクリストファーに対する初恋。
クリストファーもアランのことを無二の存在と思っているにもかかわらず、彼に対して持病の結核のことは一言も口にしないのです。
そんなことってあり得るのだろうかって自分は疑問に思います。
でもあり得るのでしょうね。自分には理解し難いというだけで。
また、暗号解析チームの仲間であるジョーンのアランへの愛。正確にはそれを愛と呼んでいいものかどうかわからないのですが、ジョーンはアランが同性愛者であることを薄々気づきながら、つまり自分のことを本当には愛してくれてないことを知りながら、アランに生涯のパートナーになることを提案するのです。
この愛もまた自分にはとても不可解なものでした。
そして、アランの、クリストファーへの、生涯をかけて誓った無垢の愛。
これはもう誰にも理解出来ないといってもいいのではないのでしょうか。
結果的にアランはそのために命を落とすことになったのですから(直接の死因は自殺ですが)。
自分は愛というものを「自らの命よりも何かを大切に思うこと」だと定義しています。
定義はすれど、実のところそれがどういったものなのか理解出来ていません。
そのことをこの映画を観て再確認しました。
いつか少しでもわかればいい、そう思います。
お気に入り度は★★★★、お薦め度は★★★★は五つで満点、☆は★の半分)。
ブログの概要に「日々の雑事と趣味と偏見のブログ」とある通り、自分は偏見の持ち主です。さらにいえば差別主義者でもあります。
普段はそれを表に出さないように気を付けていますが(気をつけてこれかよ!と言われそうですが)。
4/1の記事で「嘘をつくこと自体が悪いのではない。(ついて)悪い嘘と善い嘘があるだけなのだ。」というようなことを書きました。
同じようなことは偏見や差別についても言えると思います。
本当に偏見を持つのはいけないことなのでしょうか?
そして差別をするのは良くないことなのか?
自分は決してそうは思わないのです。
よく「差別をするのは良くない」って言いますよね。
自分はこの言葉は正しくないと思うのです。より正確には不完全である。
正しくは「“いわれのない”差別をするのは良くない」と言うべきだと思うのです。
この場合の“いわれのない”とは何の“いわれがない”のかというと、言うまでもなく、「本人が責任を取る」“いわれのない”ということです。
自らの自由意思で選択していない事柄に関して本人の責任を追及するのは酷であるってことですよね。
自らの自由意思で選択していない事柄というのは何かというと、例えば、肌の色であり、性別であり、生まれた環境であり、つまりは自分自身では選びようがないことですよ。
これに対し、「本人が責任を取る“いわれがある”」事柄は何かというと、自らの自由意思で選んだすべての事柄です。自らが選択した結果について責任を取るのはごく当然のことです。
いわれのない差別、いわれのある差別、すべてをごっちゃにして「差別をするのは良くない」と言っている人は、差別について深く考えたことがないのだと思います。もしくは差別というものがよくわかっていないか。
所詮私たち人間は不完全な存在なのです。すべての対象に対して平等に接する、ということは不可能です。対象Aと対象Bに対して扱いに差があるのはごく当然のことです。
大切なのは、差別をする際に、自分の中できちんと差別をする理由が存在するか否か、だと思います。
これといった理由がないのに差別する、気分がむしゃくしゃしていたので差別する、いわれがないとわかっているのに差別する、これらはすべてよくない。
極端な話、溺れている子どもが二人いて、一人が我が子であれば、一つしかない浮き輪を我が子に投げるのはごく当然の選択です。その選択は責められるべきではない。その差別は正当だったといっていい。仮にもう一人の子供が溺れ死んだとしても、です。
前置きがずいぶん長くなってしまいました(いつものことですが)。
自分はあまり表立っては言いませんが、同性愛に対して不寛容な立場を取ります。
自分なりの理由はあります。長くなるので割愛しますが、見た目が気持ち悪いからとか、気に入らないからとか、そんなどうでもいい理由からではありません。
また不寛容な立場を取るといっても別段同性愛者を迫害しようとか、排斥しようとかいうことは考えていません。
なぜそのことを表だって言わないのかというと、世の同性愛者からバッシングをされるのを恐れているから、ではありません。
それをまったく恐れないかというとそんなことはないのですが、自分がより恐れるのは今、ブログに良くコメントをしてくださる方の中に同性愛者がいた場合です。
別にこの人は同性愛者だろうなどといった確証があるわけではないのです。ただ、コメントをしてくださる人すべてのプロフィールを把握しているわけでもないですから。
自分が同性愛に対して不寛容であると公言することで、誰かが来てくれなくなるのは非常に困るのです。
それなのになぜ敢えて公言するかというと、それを明らかにすることなしに自分はこの映画のことを語れないからです。我ながら不器用だと思わないでもありません。
この映画には様々な形の愛が登場します。
例えば少年アランのクリストファーに対する初恋。
クリストファーもアランのことを無二の存在と思っているにもかかわらず、彼に対して持病の結核のことは一言も口にしないのです。
そんなことってあり得るのだろうかって自分は疑問に思います。
でもあり得るのでしょうね。自分には理解し難いというだけで。
また、暗号解析チームの仲間であるジョーンのアランへの愛。正確にはそれを愛と呼んでいいものかどうかわからないのですが、ジョーンはアランが同性愛者であることを薄々気づきながら、つまり自分のことを本当には愛してくれてないことを知りながら、アランに生涯のパートナーになることを提案するのです。
この愛もまた自分にはとても不可解なものでした。
そして、アランの、クリストファーへの、生涯をかけて誓った無垢の愛。
これはもう誰にも理解出来ないといってもいいのではないのでしょうか。
結果的にアランはそのために命を落とすことになったのですから(直接の死因は自殺ですが)。
自分は愛というものを「自らの命よりも何かを大切に思うこと」だと定義しています。
定義はすれど、実のところそれがどういったものなのか理解出来ていません。
そのことをこの映画を観て再確認しました。
いつか少しでもわかればいい、そう思います。
お気に入り度は★★★★、お薦め度は★★★★は五つで満点、☆は★の半分)。