この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

酷評されても心が折れる必要なんてない。その2。

2015-05-09 22:28:10 | 戯言
 昨日の記事で酷評だってありがたいと思って拝聴すべし!というようなことを書きました。
 しかし矛盾するようですが、同時に酷評なんて必要以上に気にするものじゃないとも思います。
 なぜかっていうとまず、その酷評が必ずしも的を射ているとは限らないというのがありますし、また、その酷評に100%従って作品を書いたとしても、その出来に酷評した人が責任を持ってくれるわけではないからです。当たり前ですけどね。

 だから酷評なんてものは的確な内容であれば素直に受け入れればいいし、そうでないなら聞き流せばいい(もしくは反論したいならば反論すればいい)。
 それだけのことで、酷評されたからといって心が折れる必要なんて全然ないんですよね。

 かくいう自分に関しても、最近こんなことがありました。
 拙作『風の歌を歌う』が作家志望、小説家志望コミュ内 第二回文学賞(仮)で読者賞、互選賞の二部門を制覇したことは既に報告しました。
 二部門を制覇したってことは全投稿作の中で一番支持を受けた作品だということですが、この作品を読んだ人全員に高く評価されたかというとそういうわけでもなく、中には酷評した人もいました(酷評というほど厳しいわけではないけど。どちらかというとアドバイスの類いですね。)。
 その人のレビューを転載。

『人の心が読める』という設定と「ぼくの正体」を考えると、もっと描きようがあったのではないかと残念。読めるのは思考だけなのか、イメージを含めた「想像したもの」まで読めるのか? チズナはいくつくらい(就学中or就労中)なのか? 囲われた柵は、乗り越えたり潜り抜けたりできるようなものなのか? ところで、ぼくは何の木? ――曖昧に描いた部分をもう少しビジュアル化するだけで、かなり見違えそうです。
 とはいえ、規定字数できちんとオチているし、まとまりも有って好印象です。改稿すると一見オーバーしてしまいそうですが、要る情報・要らない情報をしっかり選択できれば収まるストーリーだと思うので、機会があれば改稿作を読んでみたいと思います。


 曖昧に書いた部分があるというのはその通りです。
 でもこの人の言う、要る情報、要らない情報の線引きがよくわかりません。
 ヒロインのチズナに関しては(年齢や容姿など)自分なりのイメージはあります。でも作中それを明らかにするつもりはないですね。
 なぜかっていうと、一人称の語り部であり、主人公である“ぼく”がチズナの年齢や容姿に大して興味がないからです。興味がない“ぼく”にそれを詳しく語らせることは出来ないけどなあ。
 チズナに関する情報は「子どもっぽいと言われて腹を立てた(フリをした)」という情報だけで充分だと思うんだけど。
 さらに“ぼく”を囲った柵について具体的に書けと言われてもね…。それって本当に必要な情報なんですかね?
 一番「what?」って思ったのは“ぼく”が何の木なのか、ってことですね。そんなことにこだわる人がいるなんて思ってもみなかったです。
 “ぼく”がブナの木なのか、スギの木なのか、ナラの木なのか、それを明らかにすることで作品への評価ががらっと変わるものなんですかね?
 正直作者の自分自身、“ぼく”が何の木なのか、まったく考えてなかったです…。

 読んでもらったことはやっぱり嬉しいし、レビューを書いてもらえたことも光栄に思う、でもこの人のアドバイスを取り入れることはちょっと出来ないかな。

 まぁそれでいいだろうって自分では思っています。
 結局のところ万人を満足させる作品など書けるわけがないのですからね。
 自分は自分の作品を面白いと言ってくれる人のために作品を書いていきたいです。

 それが書けてないわけだけど。笑。 
コメント (6)
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