いわき市考古資料館では、8月17日まで「近世いわきの藩展Ⅳ ー泉藩・窪田藩ー」が開催されている。
江戸時代、いわき市内には、磐城平藩、泉藩、湯長谷藩、窪田藩があった。考古資料館では、これまで磐城平藩展を2回、湯長谷藩展を1回、4回目は泉藩と窪田藩である。
泉藩は、「超高速参勤交代」でおなじみの湯長谷藩同様、磐城平藩の分藩である。1634年に成立。内藤公にはじまり、板倉公、本多公と続く。泉舘は、現在の泉公民館、いわきコンピュータカレッジの敷地を中心に展開、現在は区画整理のためその面影はないと思われる。
窪田藩は、1622年、内藤政長の娘婿・土方雄重が2万石で入封、お家騒動により、1684年にはお家断絶。土方家は、後に旗本になっている。屋敷は、現在の勿来第一小学校、地名も「窪田伊賀屋敷」という。
展示は、パネルで、藩の成り立ち、所領、産業、参勤交代の経路、発掘調査の出土品、転封・移封などにより関わりのある城下の写真などが展示されている。とりわけ、目玉とおぼしき展示は「本多の赤玉」である。本多2代目の本多忠籌(ただかず)侯は、寛政2年(1790)4月、老中に就任。持槍2本を許され、参勤交代で登城の際は行列の先頭に立てて、持槍2本のうち1本の素槍には、太陽をあらわす赤玉「朱天目」、俗に言う「赤玉本多」を槍の穂先に飾り、威風堂々と登城したそうだ。
考古資料館の奥の部屋では、ゴールデンウィーク「勾玉づくり体験」が開かれていた。奥から子どもの声が聞こえてきた。
江戸時代、いわき市内には、磐城平藩、泉藩、湯長谷藩、窪田藩があった。考古資料館では、これまで磐城平藩展を2回、湯長谷藩展を1回、4回目は泉藩と窪田藩である。
泉藩は、「超高速参勤交代」でおなじみの湯長谷藩同様、磐城平藩の分藩である。1634年に成立。内藤公にはじまり、板倉公、本多公と続く。泉舘は、現在の泉公民館、いわきコンピュータカレッジの敷地を中心に展開、現在は区画整理のためその面影はないと思われる。
窪田藩は、1622年、内藤政長の娘婿・土方雄重が2万石で入封、お家騒動により、1684年にはお家断絶。土方家は、後に旗本になっている。屋敷は、現在の勿来第一小学校、地名も「窪田伊賀屋敷」という。
展示は、パネルで、藩の成り立ち、所領、産業、参勤交代の経路、発掘調査の出土品、転封・移封などにより関わりのある城下の写真などが展示されている。とりわけ、目玉とおぼしき展示は「本多の赤玉」である。本多2代目の本多忠籌(ただかず)侯は、寛政2年(1790)4月、老中に就任。持槍2本を許され、参勤交代で登城の際は行列の先頭に立てて、持槍2本のうち1本の素槍には、太陽をあらわす赤玉「朱天目」、俗に言う「赤玉本多」を槍の穂先に飾り、威風堂々と登城したそうだ。
考古資料館の奥の部屋では、ゴールデンウィーク「勾玉づくり体験」が開かれていた。奥から子どもの声が聞こえてきた。