団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

LGBTから考える

2015-11-06 10:39:01 | Weblog
 レズビアンの女性二人が、渋谷区役所からパートナーの証明書をもらったことをマスコミは大きく報じている。性的マイノリティを社会が認める第一歩になったわけだが、ここまでクローズアップしていいものか、という面で違和感が残った。
 個人の立場としては、理解ある好々爺になるのか、眉をひそめるおじさんになるのか、判断が別れるところである。私としては、勝手にやって、というのがスタンスか。
 憲法は同性婚を認めていないから、現状では夫婦にはなれなくて、結婚も離婚もあり得ない。男女でもそうだが、今は仲良く愛しています、といっても、喧嘩して別れれば、あっさりその関係はなくなってしまう。夫婦なら、戸籍に証拠が残るし、バツイチというレッテルも貼られる。
 よく考えてみれば、どってことない関係で、子供云々をいわなければ、好き同士で引っついたり離れたりしていればいいのである。ただ社会的な差別は、徐々になくしていくのは、成熟した社会の役割であるのだろう。人種差別も性差も、長い時間をかけて解決してきた。まだ不十分ではあるが、それぞれの国が使命としていることだ。
 そんなわけで、これが解決の第一歩になるのかどうか。ただLGBTというひと括りは、ちょっと乱暴のような気がする。レズとゲイは分かるが、バイ・セクシャル(昔でいえば衆道か)というのは都合が良すぎるのではないか。Tのトランスジェンダーは性同一障害者で、これは精神的な病気いう面がありそうだ。
 いずれにしても、我々のような世代にとっては、なかなか理解しがたい世界である。アダルトビデオの世界なら、興味本位にさまざまな性が描かれるが、現実の世界でそういう時代が来るというのは、やはり隔世の感があろう。
 まったく関係ないことだが、昔の女子プロレスは前座として、小人同士か女子プロとも戦った。見世物だからしかたがないし、小人にとってはいい収入源であったろう。それがなくなって、彼らはどう生きているのだろうか。
 つまりマイノリティであろうが、それ相応の生き方があったほうが、それぞれが幸せになれるわけだ。それをマジョリティの価値観、つまりかわいそうという情緒さや、教育的な適合性などで判断するのは間違っている。彼らの自立を助けることが、我々の社会の務めであろう。彼らもマジョリティの中でしか生きていけないことは確かだ。
 これは勝新太郎の座頭市の映画にも通じる。もう「ドめくら」なんていう言葉は、メディアの中にはないけれど、あんまさんで生きていく座頭市の自立こそが、隠されたテーマであったろう。
 LGBTの方々は表面からは区別はつかないが、私個人の感覚では、どう接していいものか分からない。いずれ時間がかかって、それが当たり前になっていくのだろうか。
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