ふっと目を覚ますと、心配そうにこちらを見ている渋谷の瞳があった。
綺麗な二重。意志の強い光を帯びた、印象的な瞳。すっとした鼻、小さめの形の良い口。誰が見たって『理想的な顔』と判断するような、完璧に整った造形。
(本当に綺麗だよな……)
ぼんやりと眺めていたら、目の前で手を振られた。
「大丈夫か? もう少ししたら中森が風呂連れて行ってくれるって」
「え……」
今日は写真部の合宿で学校に来ている。途中で具合が悪いと判断されて、無理矢理保健室で寝かされたのだけれども、色々と考え事をしていたら本当に寝てしまったらしい。なんだか頭がボウッとする。
「お風呂ってシャワー室使うんじゃないの……?」
バスケ部の合宿ではそうだ。学校にある5つのシャワー室を交代で使った。
でも、渋谷はニッコニコで、
「近くの銭湯に車で連れて行ってくれるってさ。中森もたまには役に立つな」
「銭湯………」
途端に背中にジクジクと痛みが広がりはじめる。
(背中のあざを見られてしまうかもしれない……)
布団の中で手をギュッと握りしめる。
甦る昔の記憶……
『どうしてこんな問題も出来ないのっ』
母のヒステリックな叫び声と、背中に走る鋭い痛み……
『浩介っ』
ゴメンナサイ ゴメンナサイ オカアサン
モット ガンバルカラ ユルシテ……
「浩介?」
「!」
渋谷の優しい声に我に返る。
同じ「浩介」という言葉なのに、どうしてこんなに違うんだろう……
「大丈夫か? もう少し寝てていいぞ?」
「……慶」
ふわっと頭をなでられる。
ゆっくり、ゆっくり、優しく、優しく……
「………」
その手の温かさに、鼻の奥がツーンとなって目の前がぼやけはじめる。
ボロッと涙がこぼれると、渋谷が慌てたようにその涙をぬぐってくれた。
「どうした? どっか痛いのか?」
「………」
首を振るけれど、涙は止まらない。
何年も泣いていなかったのに、渋谷に会ってからは泣いてばかりだ。
『泣き止むまでここに入ってなさい!』
おれが少しでも泣くと、母はそう言って容赦なくおれを物置に閉じ込めた。おれは悲しくても痛くても辛くても泣いてはいけなかった。だからもう涙なんか出なくなったと思っていた。
でも、つらいときも、うれしいときも、泣いていいんだと、渋谷が教えてくれた。
「もしかして……宇野の言ったこと気にしてるのか?」
「………」
渋谷の言葉に詰まってしまう。
先ほど、元クラスメートの宇野に攻撃的な言葉を投げかけられて、おれは固まってしまったのだ。それを渋谷がサッと助けてくれて……
『渋谷もいつまで守ってくれるだろうな』
その後、その様子をみていたらしい写真部OBの五十嵐先輩にそう言われた。
『親友、なんて言ってたって、人なんて簡単に裏切るぞ? その時、自分の足で立っていなかったら、もう起き上がれない。お前自身が人に頼らず立っていられるようにならないと……』
おれはいつも渋谷に助けてもらってばかりで……
こんなおれをいつか渋谷も見限ってしまうかもしれない……
「宇野のことは気にするな。あいつ何も考えてねえから。その時思ったことなんでも言っちゃうバカなんだよ」
「………」
宇野と渋谷は、宇野がおれと同じクラス、というだけの繋がりなんだけど、気がついたら仲良くなっていた。渋谷は誰とでも分け隔てなく話せて、人懐こくて、友達も多くて……
「……ごめんね」
「何が?」
キョトンとした渋谷を布団の中から見上げる。
「おれ……渋谷に頼ってばっかりで。写真部の他の部活との交渉だって全部渋谷に頼りっぱなしで」
「こ、う、す、け」
「あ」
一文字ずつ名前を切って呼ばれて、ハッとする。今おれ「渋谷」って言ったな……。
渋谷は「親友なんだから名前で呼べ」と言ってくれてるんだけど、どうしてもいまだに「渋谷」と言ってしまうときがある。
渋谷はおれの中3の時からの憧れの人で、ずっと心の中で「渋谷、渋谷」って呪文みたいに言ってたくらい心の支えにしてて、今でも憧れの人で、そんな渋谷を他の誰も呼んでいない「慶」という呼び名で呼ぶことは、やっぱり恐れ多いというかなんというか……
「あのな」
渋谷があらたまったように言った。
「別にいいじゃねえかよ。いくらでもおれを頼れよ」
「でも」
「言うじゃねえか。人っていう字は人と人が支え合っている……」
「………」
渋谷は人差し指2本で人という字を作ってみせてくれた。
その話、知ってる。でも、本来、人という漢字は……
「まあ、本当は人が一人で立ってる姿なんだけどな。こう腕をぶらんってしてな」
「うん……」
あ、渋谷も知ってたんだ。
そう、「人」というのは、一人で立っているものなんだ。五十嵐先輩のいうように……
「でも!」
「わっ」
渋谷がいきなりベッド横の椅子から、ベッドの端の、おれの胸元の横あたりに腰をかけ直したので、ベッドが揺れて驚いてしまう。
「おれは、人は支え合ってるもんだと思うぞ?」
「でも」
一度ひっこんだ涙が出そうになってきた。
「おれは慶に支えてもらってばかりで、何も支えてない」
「は?」
眉を寄せた渋谷に構わず、言葉を重ねる。
「支えてばっかりじゃ、重くて嫌になるよね?」
「………」
「やっぱり人は一人で立たなくちゃいけないんだよ」
「………」
「そうじゃないと、支えがなくなったとき、おれは……」
『しね みんな しね おれはぜったいにゆるさない』
あのノートの人のように、世の中に毒づいて、下を向いて、それで、それで……
「…………」
渋谷がジッとこちらを見ている……
ハッとする。
なんでおれ、こんなこと言ってしまったんだろう。
重くて嫌になる、なんて、そんな重いこと言って……
「あの……」
その沈黙に耐えられなくて、口を開こうとしたのだが、
「………お前、ばか?」
大きなため息とともに、渋谷がボソッと言ったので口をつぐんだ。……ばか?
「え」
「お前は二つ勘違いしてる」
目の前に指が2本立てられた。ピアノでも弾けそうな細くて長い指……
「まず一つ、人は一人で立つ必要はどこにもない」
「え」
渋谷はいたって真面目な顔をしていった。
「無人島で自給自足の生活でもしてるならともかく、人はみんな人と関わり合って生きている。足りないところはお互い補い合って生きていけばいい。一人で全部やる必要なんかどこにもない。支え合って生きていけばいい。できないことは人を頼ればいい」
「でも」
また泣きそうになって口がへの字になってしまう。
「おれは支えられてばかりだよ。そんなんじゃ……」
「二つ目」
再び指を突きつけられて、言葉を止めると、ふっと、渋谷の目が笑った。
「お前はおれを支えてくれてる」
「どこが……」
何を言って……
「勉強教えてくれてるしな」
「そんなの」
すぐに必要なくなる。
首を振ると、渋谷は切ないほど優しく微笑んだ。
「それに………」
「…………」
渋谷の温かい手がそっとおれの頬に触れる。
「そばにいてくれてる」
「え……」
そばに……?
「笑ってくれてる」
「………」
「泣き顔をみせてくれてる」
何を言って……?
「おれはそれだけで充分だ」
「…………」
よく……わからない。
「それのどこが……」
「おれはお前が一緒にいるだけで嬉しくて楽しい。それって充分な支えだろ?」
「…………」
そんなの……おれなんかいなくたって、渋谷にはいくらでも友達なんかいる。
でも、でも。おれには渋谷しか……
「ああ、それから」
渋谷はニッと笑うとおれの頬をむにっと掴んだ。
「さっき、支えがなくなったら、とかいってたけど……」
「……うん」
「おれっていう支えは絶対に無くならないから、いくらでも頼れ。いくらでも支えてやる」
「……………」
渋谷の強い光の瞳。眩しい……
……わからない。
どうして……どうして?
「どうしてそんなこと言ってくれるの……?」
「…………」
「慶?」
渋谷はなぜか口を開きかけ、閉じて、また開けて、を繰り返した挙げ句、
「…………親友だから」
なぜかちょっと怒ったように言った。
(親友……)
でもそれだっていつまで……。
その思いを読み取ったかのように、渋谷が肩をすくめた。
「つかさあ、おれ、前からさんざん言ってるよな? いい加減信じろよ」
「だって………」
「まあ、いいけど」
トンっと渋谷は身軽に飛び降りた。
「何度でも言ってやるから、何度聞いてもいいぞ? 答えはいつも同じだけどな」
ビシッと人差し指で眉間に指される。
「おれはずっとお前のそばにいる」
「…………」
「お前はおれの親友。おれの一番。おれの唯一無二。おれの………」
「…………え?」
見返すと、渋谷はぼそっと付け足した。
「お前にとってのおれも、そうであってくれたら嬉しいんだけどな」
「え………」
それは………
「…………慶」
初めてみる表情………
何だろう………『渋谷』じゃない。『渋谷』はいつも自信満々で揺るぎなくて……
でも、今、ここにいる渋谷は、なぜか少し不安気な瞳で……
おれの憧れの『渋谷』じゃなくて……
「風呂、行けるか?」
「あ………うん」
ふっと渋谷は視線をそらすと、ベットを囲っているカーテンを勢いよく開けた。
「先戻ってる」
「うん」
その後ろ姿もなぜか寂しげで………
「………慶」
友達になって一年以上経つというのに、初めて『渋谷慶』という人を見た気がした。
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お読みくださりありがとうございました!
踏み込めない慶。とんと鈍感な浩介(いや、でも同性だもんな~気がつかないよな~)、でもとりあえず、『憧れの渋谷』フィルターは外れるかも?また明後日、よろしくお願いいたします!
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