ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

肉体を盗んだ魂(10)

2016-09-01 23:59:06 | 小説
再び美由の部屋に戻り、腕立て伏せをこなそうとする。昨日までは平気で50,60回は当たり前だったのに、床に顎をつけてから腕を伸ばせない。今度は腹筋に挑戦するが、これも駄目だった。やはり、風呂場で感じた通りの、情けなく頼りない体だった。

男に戻りたい。急に込み上げてくるものを口を結んでこらえる。母や姉は今頃どうしているのだろう?沈痛とか無念を通り越した彼女たちの表情が脳裏をよぎる。早くに父を亡くし、女手ひとつで育ててくれた母。厳しくてケンカもしたけど、本当は心が温かく、僕を可愛がってくれた姉。あの二人はこの先、どうなるのだろう。考えると頭がおかしくなりそうだ。切り替えなければ。新しい家族のことを考えよう。



確かに外観は整っている。優しそうな父がいて、教育熱心な母がいて、そして大学生の美由、一心不乱に受験勉強に励む弟。父親はどうやら銀行員らしく、家も大きくて洒落ている。たった一日生活しただけでも、裕福であることは十分に伝わってくる。しかしその中身は、どこかすかすかで薄っぺらい感じだ。



美由にも同じ印象を受けた。大学でも家庭でも、接する人によって態度を変えて、相手に合わせようとする。だから光の三原色のようになって、自分というものを失ってしまう。彼女だけが僕を受け入れてくれた理由が分かったような気がする。優しいからではない。周りに振り回されて、いつの間にか美由自身が消えてしまったのだ。そこに僕が入り込むスペースが生まれたのだろう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体を盗んだ魂(9)

2016-09-01 23:20:00 | 小説
美由はケーキを食べ終えると、階段を上り2階の自室に入った。バイトへ行く準備でもするのかと思ったのだが、単に寝そべって雑誌に目を通しているだけだ。いつまで経っても動く気配がない。それでやっと気づいた。美由はバイトなんかしていない。単に友達付き合いを避けるために、架空の話を作り上げていたのだ。



夜が深まり、美由は着替えを持って風呂場へ向かった。僕には彼女、というよりは自らの新しい体に対する好奇心よりも、女性になったことを認めたくない気持ち、それに女であることの煩わしさの方が先に立った。出来るだけ、それらのことからは目を逸らしたい。勝手に美由がやってくれるだろうから。しかし、どうしても無視しきれない部分がある。なんという柔らかさなのだ。男である時には魅力的に映った体が、今度は情けないとか頼りないという感情を浮かび上がらせる。とにかくこの長い髪はうっとうしい。明日にでも切ってやる。



風呂から上がり、鏡の前に立ち、改めて僕の新たな体を見渡した。思わず体からは目をそむけ、視線を上に運ぶ。顔がある。こうしてじっくり眺めるのは初めてだ。なかなか整った顔立ちをしている。だが自分のものとは到底思えない。

・・・あんまりじろじろ見ないでよ・・・

美由の弱々しい声を感じ取った。

・・・俺だって好奇心で見ている訳じゃない。そんなんじゃないんだ・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体を盗んだ魂(8)

2016-09-01 23:11:25 | 小説
「ただいま」

「おかえりなさい」

僕は冷蔵庫からケーキを取り出し、美由の母親に紅茶を注いでもらう。銀縁メガネの弟は、食事中もテキストらしきものを広げ、真顔で見つめ続けている。

「まあ、あなたも何ヶ月か前まではああいう生活をしてきたからこそ、いい大学に入れたんだから、そんな不思議そうな顔で見ないの。今はまだ楽しいキャンパスライフを満喫するのもいいでしょう。でも、もうしばらくしたら、大学以外での勉強を始めた方がいいわね」

「えっ、勉強?」

思わず僕が口走ってしまった。

「そうよ。今はダブルスクールなんて当たり前の時代じゃない。大学へ入っただけで安心してるようでは駄目。それだけじゃ、いい会社に就職なんて出来ないんだから」

美由の母は彼女の肩に軽く手を置きながら言った。



「ごちそうさまでした」

か細い声が左斜め前から流れてきた。弟は素早く立ち上がり、出かけるようだ。大体、向かう場所の見当はつく。予備校に行くに違いない。玄関でごそごそ音がする。母親が弟の方へ急ぎ足で向かう。

「塾が終わったらまっすぐうちに帰るのよ」

「わかった」

「じゃあ、いってらっしゃい」

「いってきます」



美由の母親が戻ってきた。

「あの子もこの調子でいけば大丈夫ね。うん、きっと大丈夫」

母親は言い聞かすように呟いた。まだ5月の終わりだというのに、受験シーズン終盤を迎えたような力みようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体を盗んだ魂(7)

2016-09-01 22:42:13 | 小説
僕は帰りの電車内で学生証を取り出してみた。本名は松本美由。生年月日は偶然にも僕と1ヶ月も違わなかった。同じ19歳だ。年齢的には申し分ない。しかし、「松本美由」の響きには、大いなる違和感を抱かざるを得なかった。

電車から降りると、雨がポツポツと当たりだした。美由は、あらかじめ用意していた折り畳み傘を広げる。赤い色が恥ずかしい。家はどこなのだろう?出来るだけ僕の実家とは離れていてほしい。



美由の自宅は、僕の実家から歩いて20分ほどの所にあった。新しくて立派な家だ。庭も広い。中に入ると見知らぬ人たちがいた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

玄関まで出迎えに来たこの中年女性が、美由の母親なのだろう。

「ケーキがあるから早く手を洗ってきなさい」

「はい」

随分と素直な返事だ。うちの姉が母親に向かって「はい」などという返事を聞いた覚えはない。感じの悪い「は~い」や、「はいはい」とため息混じりにはき捨てることならよくあったけれど。



リビングに入ると、ブレザーを着た高校生風の若者が、ゆったりとした部屋の雰囲気と真逆のせわしない食事を摂っていた。彼がきっと美由の弟だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肉体を盗んだ魂(6)

2016-09-01 22:34:42 | 小説
目を覚ますと、見慣れたような場所であり、普段と似た雰囲気だ。ただ、匂いが違う。どうやら大学の教室らしい。首を左右にゆっくり振ってみる。初めて僕の意志で新しい体を動かした瞬間だった。

・・・どうやら大丈夫だ。動いてくれるようだ・・・



両隣には若い女が座っていた。見知らぬ顔だ。当然か。やり場のない視線を腕時計に乗せる。3時近い。比較的、教室が広いこともあり、午後のまったりとした空気が散らばっている。

「もう3時か。ねえ美由、今日どうする?」

右隣に座っている女が話しかけてきた。僕には答えられそうもない。するとこの体の持ち主が言葉を発した。

「どうするって、私はその、バイトがあるから」

「スーパーの」

「そうスーパーの」

「じゃあ、しょうがないなあ」

女が少しふてくされた顔を浮かべて、今度は僕の左隣にいる女と打ち合わせを始めた。体の主が、その話にいちいち小さく頷いて、力なく笑っている。僕は自分の名前が美由である事に少なからずショックを受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする