六月七日(木)晴れ。
午前中から東京行き。高田馬場のホテル「サンルート」のレストランにて、午前十一時から、「実話時報」編集部のリクエストで、鈴木邦男さんとの対談を行った。考えてみれば鈴木さんと、こうして個人的にお会いするのは随分と久しぶりのことである。様々な会合やパーティーでお会いするが、そういった席なので、あまり深刻な話はできない。先日も、岐阜で行われた「五・一五事件八十周年」の記念式典の場でもご一緒させて頂きご挨拶をさせて頂いた。
私が、この運動を始めた当初、たしか昭和五十九年の頃だと思うが、横浜の駅ビルにある貸部屋「フラワールーム」で、毎月勉強会を開催していた。横浜青年政治研究会(略称・横政研)である。講師としては、中村武彦先生や毛呂清輝先生、そして野村先生も昭和五十年の戦線復帰直後に講演して頂いた。もちろん鈴木さんや、犬塚博英、大場俊賢といった先輩諸氏、いわゆる「新右翼」と呼ばれた人たちに横浜に来て頂き、勉強会を開催した。
その頃、大場俊賢氏を中心として、核拡散防止条約の反対闘争が行われ私も積極的に参加した。その反対闘争をきっかけに日本主義青年協議会の結成につながって行く。メンバーは、学純同からは、大場氏はもとより前田伏樹、長谷川光良の両氏。一水会からは、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英の諸氏。そして、前の「新風」の代表だった魚谷哲央氏、「立ち上がる青年神道人の会」の森田文憲氏、岐阜の花房東洋氏、当時新日協に在籍していた笠原正敏氏、そして私である。
日青協主催の、反核防闘争の場に、長谷川光良氏の紹介で、当時、国防青年隊を結成したばかりの渡邉康司氏が参加し、彼と出会うことになる。その渡邉氏も若くしてなくなり、先日、十七回忌の法要を終えた。
久しぶりに鈴木さんからお聞きした話は、いわゆる「ネット右翼」や昨今の政治状況など多岐にわたった。帰りに、若松孝二監督の映画、「11・25自決の日・三島由紀夫と若者たち」の劇場用パンフレットと鹿砦社発行の「憂国か革命かテロリズムの季節のはじまり」の二冊を頂いた。帰りの電車の中で、「三島由紀夫」のパンフレットを読んだが、とても内容が良い。その映画を見た大熊雄次氏や横山孝平氏の話によれば、「当初、失礼ながら若松監督の映画と言うので、ほとんど期待していなかったが、とてもよい映画で感動した」。と話していたのを思い出した。
パンフで気になったのは、右翼用語の解説の中に「YP体制」があって、これを「ヤルタ・ポーツマス体制」と訳していたのが残念だった。まあ細かい話ですが。
夜は、我が酔狂亭で月下独酌。