二月十三日(木)晴れ。
昨日の産経新聞の朝刊に、かつて終戦末期に使用された特攻兵器、「人間爆弾」の異名を持つ「桜花」に関する記事が掲載されていた。その記事とは、「英南西部ヨービルにある英海軍航空隊博物館は、戦時中に日本が米軍艦船への体当たり攻撃に使った特攻機『桜花』の修復作業を始めた。同博物館が11日までに明らかにした。太平洋戦争に関する新たな展示に向け、戦後に塗られたペンキをはがし、もともとあった塗装デザインに戻す計画。現存する桜花は世界中で十数機しかないとされる。作業の過程では、機体の詳細な調査を行っており、塗装の下に隠れていた技術的仕様に関する日本語の記述も発見された。修復には数年かかる見通し。同機は戦争の際に英国が入手した。1982年にロンドンの科学博物館から海軍航空隊博物館が譲り受け、30年以上、館内につるして展示してきたという。(共同)」。
「人間爆弾」の別名でも呼ばれる「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。しかし桜花の搭載したロケットエンジンは、一瞬で燃料を燃やしつくしてしまい、その航続距離はわずか三十七キロでしかなかった。そのため、桜花を搭載した母機は敵艦の近くまで行く必要があり、敵の迎撃戦闘機や対空砲火を考えた時、成功率はとても低かった。
その「桜花」を使用したのが、「海軍神雷部隊」で、正式名を第七二一海軍航空隊。特攻兵器である「桜花」を使用する部隊として、沖縄戦線の対艦特別攻撃に従事した部隊で、その「桜花」に加えて、零戦に爆弾を抱えた特攻機やそれらを護衛する零戦、「桜花」の母機となる一式陸攻の搭乗員部隊の総称である。
昭和二十年三月二十一日、沖縄決戦がたけなわの時、ついに神雷部隊に出撃命令が下った。しかし、それでなくとも鈍重な一式陸攻は桜花を抱けばさらに速度が遅くなる。 母機となる一式陸攻の搭乗員一三十五名が整列した。一個中隊九機の二個中隊、計十八機。体当たりする第二桜花分隊は十五名。母機のうち野中五郎隊長機を含む三機は桜花を積まずに出撃する。この三機には機銃員を多く乗せ、戦闘機の不足を補うべく編隊の先頭と左右とを守る計画である。滑走路のかたわらには、五色の吹き流しとともに、「非理法権天」「南無八幡大菩薩」の大のぼりがひるがえっている。
整列する隊員の前で宇垣長官はこう訓示した「本日の攻撃は容易ではない。しかし、断じて行えば鬼神も避く。諸君の殉国の熱情を以てすれば、如何なる国難も突破できる。必ず成功する。その信念をもって征け」。
飛行隊長であった野中五郎少佐が出撃隊員の前に立ちこう言い放った。「まっすぐに猛攻を加えよ。空戦になったら遠慮はいらぬ。片端から叩き落とせ。戦場は快晴。戦わんかな、最後の血一滴まで。太平洋を血の海たらしめよ」。
三月二十一日の午前十一時三十五分、野中少佐の一番機が滑走をはじめた。日本海軍史上、最初のロケット部隊の出撃である。彼らの正式名称は「第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」 。神雷部隊が決戦を挑んだアメリカ機動部隊は、午後一時四十七分、レーダーにて日本側の攻撃機を確認。ただちに二隻の空母から迎撃機、グラマンF6F戦闘機四十八機が発進、野中隊に襲いかかった。わずか二十分程の戦闘で野中隊は全滅。直援の戦闘機も大打撃を受けた。 全滅した第一次桜花攻撃隊の死者は野中少佐以下、百六十名であるのに対して、アメリカ側の損害は戦闘機一機が失われ、被弾一機のみであった。
米軍機に搭載されていた「ガンカメラ」によって、機銃掃射で桜花を搭載した野中機が、煙を吹きながら落ちて行く映像を「ユーチューブ」で見ることができる。一式陸攻の搭乗員は十名である。映像を見ていて目頭が熱くなる。
鎌倉の山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山である建長寺は鎌倉五山(足利義満のときに定めた鎌倉臨済宗の五大寺で、建長寺の他に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の総称)の第一位で、正式には巨福山建長興国禅寺という。その建長寺の裏に「神雷部隊」の供養碑がある。「神雷部隊」の戦死者は、沖縄航空決戦で未帰還となった海軍航空隊員の実に四割を占めている。 建長寺の慰霊碑は、それらの戦死者を慰霊するものである。今は故人となったが、庵主が隊員の一人であったという縁でこの地が選ばれ、昭和四十年(一九六五年)三月二十一日、庵主を導師として慰霊碑が建立された。
建長寺にある神雷部隊の慰霊碑の横には、報道班員として神雷部隊と接触した作家、火野葦平の長詩「あゝ火箭の神々」の一部が添えられている。また、この神雷部隊の生き残りの人たちが靖国神社に寄贈した桜の木「神雷桜」が東京都の桜の開花宣言を判定する木の一本となっている。ちなみに、神雷部隊の隊長であった野中五郎少佐は、ニ・二六事件の際に「檄文」を起草した野中四郎大尉の弟である。
野中五郎少佐を隊長とする神雷部隊の初陣の日。すなわち昭和二十年三月二十一日。年こそ違え、三月二十一日は、私の誕生日でもある。よって少なからず、私は神雷部隊にこだわりを持っている。
産経新聞の「桜花」の記事を読み、建長寺の慰霊碑に思いを馳せた。