二月十九日(水)晴れ。
幾らか体調は良くなったが、まだ咳と鼻水が止まらない。今日は午後から私が役員の末席を汚している大行社の役員会議がある。大事をとって休もうかとも思ったが、月に一度のことなので、無理をして出席した。会議では、顧問、相談役の挨拶と言うものがあり、毎月、簡単な挨拶を述べるのだが、いつも「講演の名手」の四宮正貴先生の後で、前座が真打の後に話をするようで、どうも具合が悪い。でもこれも勉強とアホなりに頑張っている。
今日は、若い人たちの前で、「名は体を表す」ということについて話をさせて頂いた。それは、ちょっと私の世代では信じられないような名前を子供につける親が多いと、何かで読んだことがあり、それが「キラキラネーム」というものであることを最近知った。PCで調べてみたら、目を疑うと言うか、親の顔が見たい、と言おうか、頭がおかしいんじゃネェの、と思うような名前が沢山あって、正に暗澹たる気持ちになった。まあ考えてみれば、縁もゆかりもない他人の子供のことだから目くじら立てることもないのだが、ウクレレ持って「あーあ嫌になっちゃった、驚いた」とのたまってみたいと思うのは、もう時代遅れなのだろうか。
ソチオリンピックのスキージャンプ団体戦で銅メダルを取ったメンバーの中に、清水礼留飛(れるひ)さんと言う人がいて、無知無能な私は、例のキラキラ関係かと思って、またまたあー。とつぶやいてしまいました。そう思っている矢先の二月十九日の「産経抄」に、「礼留飛」さんの名前の由来が出ており、清水さんが居るであろうソチに向かって平身低頭しました。以下は「産経抄」から。
日本に本格的にスキーが導入されたのは明治44(1911)年のことである。新潟県高田(現上越市)の陸軍歩兵第58連隊で、オーストリアから招かれたテオドル・レルヒ少佐が兵士たちに滑り方を手ほどきした。なぜ軍隊でだったかには理由があった。その9年前の明治35年1月、青森県の八甲田山麓を雪中行軍していた青森第5連隊の210人が遭難した。生還したのは11人だけ、199人が死亡するという、日本の山岳史上に残る大惨事となった。記録的な寒波の中、猛吹雪で道を失ったのである。無謀とも思えるこの行軍は、実際には2年後に起きるロシアとの戦いへの備えだった。冬季、ロシアが津軽海峡や陸奥湾を封鎖し攻め込んできた場合、これと戦うには、八甲田山を通り青森と弘前などを結ぶルートを確保する必要がある。そう考えての訓練だった。遭難の原因には、地元民の案内人を付けなかったことなどがあげられた。だがもうひとつ指摘されたのが兵士たちの足元だった。大半は「かんじき」をつけるか普通の軍靴だけで、想像を上回る積雪に動きが取れなかった。陸軍は「スキーをはく軍隊」の必要を感じたのだ。現実にレルヒ少佐がスキーを伝授したのは日露戦争後だった。今では軍事と関係なく国民の多くがゲレンデで楽しむ時代となった。その陰ですっかり忘れ去られていた「スキー事始め」やロシアにおびえていた歴史がソチ五輪で、突然のようによみがえった。レルヒ少佐にちなんで名づけられたという清水礼留飛(れるひ)選手がスキージャンプ団体戦で銅メダルを獲得したからだ。因縁めくが、ひとつ上の2位になったのは少佐の母国、オーストリアだった。日本として「恩返し」できたというべきか、どうか。
いやはや知らぬこととはいえ、アホバカ「キラキラネーム」と誤解して、この罪、万死に値します。