七月十三日(水)曇り。
午後一番で新宿に行き、お世話になっている珠光出版の阿形充規先生と四十分ほど打ち合わせ。帰路、駅に向かう途中でにわか雨に遭う。星野立子の「重き雨どうどう降れり夏柳」の句が浮かんだが、それほどの本降りではなく幸いした。
ニュースでは、オランダのハーグ仲裁裁判所が、中国が南シナ海広い範囲に独自に設定した、いわゆる「九段線」は、「法的根拠がない」と裁定した。中国の、一方的な海洋進出に初の国際的な司法判断が下されたのである。僥倖である。
まあ当然と言えば、当然の裁定である。あの中国が主張する「九段線」なるものが、「歴史的な根拠に基づいたもの」とは、中国の指導者以外に、誰も思ってはしまい。それでも、「人の物は自分の物。自分の物は自分の物」という感覚が備わっている彼の国の人たちには、この司法判断も「馬耳東風」でしかない。それでも、今の時代に、国際法を無視すると言うことが、どれほどの信用の失墜につながる。ということが理解できていないのだろうか。世界に、面倒な、常識が通じない国が、とりあえず三国ある。どこの国かは言うまでもない。
毎年、この時期に、群青の会の大熊雄次さんが、朝顔の鉢植えを届けてくれる。入谷の朝顔市には思い出がある。昭和六十二年の七月、ちょうど朝顔市の開催されている日に東京拘置所から、網走に押送された。当時は、仙台までしか新幹線が通じておらず、仙台から特急に乗り換えて青森に着いたのが深夜。最終の青函連絡船に乗った。摩周丸という名だった。函館に就くと、札幌まで電車で行き、さらに網走まで一日半の行程だった。もう二十九年も前のことだ。今朝も紺と橙色の朝顔が咲いて、往時を思い出させてくれた。
「入谷朝顔まつりは毎年七月六日から八日まで開催される、日本最大の朝顔市です。この三日間は入谷鬼子母神や言問通りには百二十軒の朝顔業者と百の露店(縁日)が並び、毎年約四十万人もの人出で賑わっています。入谷の朝顔が世に知られるようになったのは、江戸時代末期の頃といわれています。最初は御徒町で栽培されていたものが、時代の変遷とともに入谷の植木屋が造るようになったそうです。明治中期になるとその出来栄えの素晴らしさから、鑑賞用として広く知られるようになりました。最盛期の頃は、花粉の交配によって一千種類もの朝顔が花を咲かせたといいます。その後、大正の時代に一度入谷の地から姿を消した朝顔ですが、戦後に朝顔同好会(現 朝顔実行委員会)により、再び朝顔市として今の姿を取り戻すこととなりました。
江戸時代から夏の風物詩として江戸っ子に親しまれてきた朝顔。時代を超えて、江戸の夏が感じられる三日間です」。とは、公式ホーム頁からだ。
朝顔や母への思慕は人にいはず とは野村先生の『銀河蒼茫』の夏の句から。夜は、大人しく、酔狂亭で月下独酌。岐阜の細川先生から、久しぶりに「飲んでますか」のメールが入った。
午後一番で新宿に行き、お世話になっている珠光出版の阿形充規先生と四十分ほど打ち合わせ。帰路、駅に向かう途中でにわか雨に遭う。星野立子の「重き雨どうどう降れり夏柳」の句が浮かんだが、それほどの本降りではなく幸いした。
ニュースでは、オランダのハーグ仲裁裁判所が、中国が南シナ海広い範囲に独自に設定した、いわゆる「九段線」は、「法的根拠がない」と裁定した。中国の、一方的な海洋進出に初の国際的な司法判断が下されたのである。僥倖である。
まあ当然と言えば、当然の裁定である。あの中国が主張する「九段線」なるものが、「歴史的な根拠に基づいたもの」とは、中国の指導者以外に、誰も思ってはしまい。それでも、「人の物は自分の物。自分の物は自分の物」という感覚が備わっている彼の国の人たちには、この司法判断も「馬耳東風」でしかない。それでも、今の時代に、国際法を無視すると言うことが、どれほどの信用の失墜につながる。ということが理解できていないのだろうか。世界に、面倒な、常識が通じない国が、とりあえず三国ある。どこの国かは言うまでもない。
毎年、この時期に、群青の会の大熊雄次さんが、朝顔の鉢植えを届けてくれる。入谷の朝顔市には思い出がある。昭和六十二年の七月、ちょうど朝顔市の開催されている日に東京拘置所から、網走に押送された。当時は、仙台までしか新幹線が通じておらず、仙台から特急に乗り換えて青森に着いたのが深夜。最終の青函連絡船に乗った。摩周丸という名だった。函館に就くと、札幌まで電車で行き、さらに網走まで一日半の行程だった。もう二十九年も前のことだ。今朝も紺と橙色の朝顔が咲いて、往時を思い出させてくれた。
「入谷朝顔まつりは毎年七月六日から八日まで開催される、日本最大の朝顔市です。この三日間は入谷鬼子母神や言問通りには百二十軒の朝顔業者と百の露店(縁日)が並び、毎年約四十万人もの人出で賑わっています。入谷の朝顔が世に知られるようになったのは、江戸時代末期の頃といわれています。最初は御徒町で栽培されていたものが、時代の変遷とともに入谷の植木屋が造るようになったそうです。明治中期になるとその出来栄えの素晴らしさから、鑑賞用として広く知られるようになりました。最盛期の頃は、花粉の交配によって一千種類もの朝顔が花を咲かせたといいます。その後、大正の時代に一度入谷の地から姿を消した朝顔ですが、戦後に朝顔同好会(現 朝顔実行委員会)により、再び朝顔市として今の姿を取り戻すこととなりました。
江戸時代から夏の風物詩として江戸っ子に親しまれてきた朝顔。時代を超えて、江戸の夏が感じられる三日間です」。とは、公式ホーム頁からだ。
朝顔や母への思慕は人にいはず とは野村先生の『銀河蒼茫』の夏の句から。夜は、大人しく、酔狂亭で月下独酌。岐阜の細川先生から、久しぶりに「飲んでますか」のメールが入った。