一月十八日(水)晴れ。
支那は元の時代の詩人に、薩都剌(さつとら)という人がいる。名前から漢民族ではなく、イスラム系の人と言われている。その人の漢詩に、「雪中、江を渡り山を過ぎ、暘谷(ようこく)の簡上人の房に飲む」といものがある。「山房」とは、山の中にある家、山荘を指す。「簡上人」とは、海雲大宗師簡公と呼ばれた人物。一海知義先生の受け売りである。
山酒 香を吹いて小槽より出ず
燈前に痛飲して青袍を汚す
夜深けて夢醒め 何処なるかを知らんや
老鶴一声 山月は高し
まあ読んで大意をお察しください。私は、新しい背広やシャツ、ネクタイをして出かけると、必ず、酒席で、料理の汁や酒をこぼして汚してしまうと言う悪いジンクスがある。ネクタイなどは、気をつけてシャツの中に入れるようにしているのだが、帰宅して見ると、小さなシミが付いていて、ガピーンである。すると、前述の詩の一節。「燈前に痛飲して青袍を汚す」が頭に浮かぶのである。「痛飲」とは、大いに酒を飲むこと。「夜を徹して痛飲する」。と言うように用いる。余談だが、道の兄と慕った、元楯の会の故阿部勉さんの「日記」には、良くこの「痛飲」の二文字が出てきた。「痛飲」という字を見ると、ゴールデン街で飲んでいる阿部さんを思い出す。
「青袍」(せいほう)とは、当時の官僚の着る服のこと。最近は、痛飲して「夜深けて夢醒め 何処なるかを知らんや」ということはなくなったが、「青袍を汚す」ことが治らない。だから普段着やジャージ姿で飲んでいる時が、一番落ち着く。そんな訳で、今日も作務衣に着替えて酔狂亭で月下独酌。
支那は元の時代の詩人に、薩都剌(さつとら)という人がいる。名前から漢民族ではなく、イスラム系の人と言われている。その人の漢詩に、「雪中、江を渡り山を過ぎ、暘谷(ようこく)の簡上人の房に飲む」といものがある。「山房」とは、山の中にある家、山荘を指す。「簡上人」とは、海雲大宗師簡公と呼ばれた人物。一海知義先生の受け売りである。
山酒 香を吹いて小槽より出ず
燈前に痛飲して青袍を汚す
夜深けて夢醒め 何処なるかを知らんや
老鶴一声 山月は高し
まあ読んで大意をお察しください。私は、新しい背広やシャツ、ネクタイをして出かけると、必ず、酒席で、料理の汁や酒をこぼして汚してしまうと言う悪いジンクスがある。ネクタイなどは、気をつけてシャツの中に入れるようにしているのだが、帰宅して見ると、小さなシミが付いていて、ガピーンである。すると、前述の詩の一節。「燈前に痛飲して青袍を汚す」が頭に浮かぶのである。「痛飲」とは、大いに酒を飲むこと。「夜を徹して痛飲する」。と言うように用いる。余談だが、道の兄と慕った、元楯の会の故阿部勉さんの「日記」には、良くこの「痛飲」の二文字が出てきた。「痛飲」という字を見ると、ゴールデン街で飲んでいる阿部さんを思い出す。
「青袍」(せいほう)とは、当時の官僚の着る服のこと。最近は、痛飲して「夜深けて夢醒め 何処なるかを知らんや」ということはなくなったが、「青袍を汚す」ことが治らない。だから普段着やジャージ姿で飲んでいる時が、一番落ち着く。そんな訳で、今日も作務衣に着替えて酔狂亭で月下独酌。