白雲去来

蜷川正大の日々是口実

霜鬢(そうびん)明朝又一年。

2017-01-06 18:43:05 | 日記
十二月三十一日(土)晴れ。

北海道にいたのはもう二十年以上も前のことだ。以来、大晦日になると中国の詩人である高適の「除夜作」という漢詩が必ず浮かぶ。       
旅館寒燈獨不眠  旅館の寒燈に独り眠れず
客心何事轉凄然  客心何事ぞ転(うた)た凄然
故郷今夜思千里  故郷今夜 千里に思う
霜鬢明朝又一年  霜鬢(そうびん)明朝 又一年

大晦日の夜に旅館の寒々とした灯りの下、眠らずにいる。旅人の心に、どうしたことだろう…痛ましい気持がこみ上げてくる。この夜、千里離れた故郷のことを思う。明日の朝はもう新しい年だ。この鬢の白髪もまた年を重ねるのだなぁ…。

と言うもの。本当に髪の毛は霜のように白くなって、年が明ければ六十六歳となる。正に、門松は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし。である。

夜は、友人らと、ヨットハーバーにあるYCCにて年越しのライブ。元ゴールデンカップスのエディ潘さんのバンドを聞きながら年越しである。サリーズバーの仲良しさんなど、ほとんどが知り合い。年始年末に餅をのどに詰まらせる恐れのある世代が九割。でも皆さん元気である。午前零時、お店の窓を全開にして、港の汽笛を聞く。年が明けた。

新年が皇国はもとより、皆様にとりまして佳い年となりますことを心からお祈り申し上げます。

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師走の師は僧侶の節もある。

2017-01-06 18:21:43 | 日記
十二月三十日(金)晴れ。

師走。いつも落ち着いている先生も走りだす。ということから「師走」と教えられたが、諸説あって、師走の「師」は、先生ではなく、僧侶のことで、年末の仏事に僧侶を迎えるので、僧は、あちらこちらへ走り迫ることから「師はせ月」というのがなまって「シハス」と言った説もあるそうだ。

こちとら先生でも僧侶でもないのだが、さすがにこの時期は、何かとせわしい。正月の支度もしなければならないし、家の片付けも終わったわけではない。明日、明日とおもってつい先延ばしにしてしまい、結局、汚れたままの所が何カ所かある。それでも夕方までに終えて、酒盛りの準備。二日から小旅行に出かけるので、冷蔵庫はほとんど空である。親しくしているご夫妻が、来訪するので、どうしようかと思っていたら、横浜の国士、松本洋三氏が、マグロ、カニ、ワインの差し入れ。もう鬼に金棒である。ちょっと早いが、正月用の酒を開けて、今年一年に感謝しつつ、酔狂亭で、大破・轟沈。

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障子の張替え。

2017-01-06 09:33:28 | 日記
十二月二十九日(木)晴れ。

正月も六日も過ぎたと言うのに、ズボラを決め込んでいたツケが今頃来て、まだ師走のブログを更新している。まあ、このブログを書こうが書くまいが、原稿料を貰っている訳ではないので、何の問題もないのだが、ただ自身のケジメが無くなるのが嫌なだけだ。と言うことなので、読んで頂いている皆さんには、申し訳ありませんが、急ぎ、更新いたしますのでご勘弁を願います。

細田商事さんから毎年頂いているDIARYに、毎日の出来事をもう何年も書いている。その日記の今日の所を見ると、「家族で障子貼り」とある。年末に奮発して襖と畳を新しくした。障子ぐらいは自分でと思い、ニトリで「アイロンで貼れる障子紙」を買ってきて、昨日は、風呂場で古い障子紙をはがし、表に出して干した。障子の張替えは、毎年やっているので、慣れている。今年は、下の子供にも手伝ってもらい、大四枚と小二枚を張り替えた。霧吹きで水を掛けて、乾くと、障子がぴーんとなる。子供曰く、「部屋の中だけ見ると、新築の家みたい」。鏡餅を飾って、もういくつ寝ると、お正月。

夜は、大人しく酔狂亭で、月下独酌。

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ニイタカヤマノボレとトネガワクダレ。

2017-01-06 09:00:37 | 日記
十二月二十八日(水)晴れ。

安部総理が真珠湾を訪問。恐らく、昨年のオバマ大統領の広島訪問への返礼?だろうと思うが、これまで、日本軍の真珠湾攻撃が、アメリカ側にとっては長い間、「騙し討ち」だったが、最近は、日本軍の「奇襲攻撃」と改められているとも言う。当時のルーズベルトが、日本軍の奇襲を知っていた、というのが、今や定説となりつつあるが、いずれアメリカでも、自国の国民を参戦に導くために、あえて「騙し討ち」を演出した、と言うことが、定説になる日も近いかもしれない。第一次世界大戦の参戦の時も、アメリカの大統領は、似たような手法を使ったことが、思い出させる。

安部総理の、真珠湾への「慰霊」には、文句もないが、なぜ日本が、アメリカと戦わなければならなかったのか・・・。これを明らかにして貰いたいものだ。真珠湾の奇襲は、大東亜戦争の象徴的な出来事ではあるが、当時、支那と戦っている最中に、アメリカと戦端を交えたのか。野村先生ではないが、「黄色人種である日本人が、なぜアメリカをはじめとする白色人種と三年半にわたって死闘を演じたことの真意を、後世の史家は、明らかにしてくれるであろう」。

昭和十六年十二月二日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、富士山より高い、当時の日本の最高峰の山。一二〇八とは十二月八日のことで、「X(エックス)日を十二月八日(日本時間)と定める」の意の暗号であった。ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「トネガワクダレ」。

夜、私の秘蔵のDVDボックスから「トラトラトラ」を見る。

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