白雲去来

蜷川正大の日々是口実

あゝ野麦峠

2018-02-01 11:21:18 | 日記
一月三十一日(水)晴れ。

やっと一月が終わる。他の月だと、「もう終わってしまった」との感慨があるのだが、なぜか一月だけは、月半ばからダラダラ感があって長く感じてホッとする。それでも月が替わるからと言って今日よりましな明日がある訳でもないが、とりあえずは気分転換にもなる。

朝食は、ハムエッグにキャベツの千切り添え、生ワカメの味噌汁。昼は、野毛の「尾島」のコロッケ一個。夜は、カキとナスのオイスターソース炒め、蒸し鶏、懲りずにカツオのタタキ。酔狂亭での独酌でのお供は「伊佐美」。

日本が、西洋の先進国に追いつこうとして「坂の上の雲」を目指した明治時代。製紙工場で働く女工を主人公として書かれたのが、昭和四十三年に山本茂実が発表した『あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史』である。「野麦」とはクマザサの別名で、峠一帯に群生しているクマザサの小さな実をとって粉にし、ダンゴとして食用した村人達が、そう呼んだ。その頃農村では、ヒエ、アワ、キビなどが主食で、女工たちは、そんな粗末な物でも、まずいと感じた者は一人もおらず、普通が十パーセント、旨いと思う物が九十パーセントを越えていた。(大柴晏清著『すしと文学』栄光出版社)

彼女たちを、戦後の一部の史家は、「資本主義や帝国主義の犠牲者」のように描いているが、日本近代の黎明期、日清戦争後の「三国干渉」とりわけロシアの圧力に対して臥薪嘗胆して、国民が一丸となって努力していた時代だった。時代によって労働環境が変わるのは、仕方がないことで、私が子供の頃は、土曜日も休みではなく、普通に働いていた。「半ドン」となったのは、後年のことである。また、私の小学生時代、新聞配達をしていたのは、ほとんど小、中学生だった。母が七輪一つで煮炊きしていた頃を思い出すことがある。そう考えると、我が酔狂亭の食事に愚痴など言っている場合ではない。

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咳をしてもひとり。

2018-02-01 10:12:37 | 日記
一月三十日(火)曇。

六時半に起床。トイレが先か、石油ストーブを点けるのが先か一瞬迷うが、そこは老体、トイレへ。朝食は、清風楼の焼売、「みんみん」の餃子、生ワカメの味噌汁。熱い味噌汁の中に、生ワカメを入れると、さあっーときれいな緑色に変わる。「WOWO」のCMではないが、「味噌汁を飲もうかな、生ワカメを入れよかなフフフフ。と鼻歌がでる。昼は、頂き物の「懐石お茶漬け」。夜は、生ワカメと豆腐だけの鍋。早い話が、生ワカメのしゃぶしゃぶ風である。他は、こわごわ買った「カツオのタタキ」。当然大失敗。それでも浪人には贅沢な肴だ。そんな訳で酔狂亭の夜は更けて行く。

事務所で、パソコンで管理している住所録の整理を行った。ここ十年ほど音信不通な人を削除したり、新しく頂いた名刺の住所を入力したりと、気がつけばことのほか時間がかかってしまった。そう言えば、私の携帯も少し整理しようと思い開けてみた。その昔、飲み屋でオネエサンに戯れで教えて貰った番号らしきものがある。名前だけのものや、お店の名前、フルネームのものもあるが、正に一期一会。顔と名前も一致しないので、全て削除した。恐らく向こうも私のことなど覚えていないのに違いない。

いつも削除しようかどうかと迷うのは、亡くなられた人たちの番号である。消してしまうと本当に縁が切れてしまい、思い出も消えてしまうような気がして、消せずにいた。清水常二、山本眞一朗、折本満などの同志・・・。一周忌、三回忌も過ぎたので、心で詫びて消した。事務所に一人でいたせいもあって、寂寥感に苛まされ、泣きそうになった。先日、急逝した正田秀行氏の携帯もしばらくは消せそうにもない。

寒い事務所で咳がでた。そう言えば小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ち、病魔に侵されながら詠んだ尾崎放哉の「咳をしてもひとり」の句が浮かんだ。

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