白雲去来

蜷川正大の日々是口実

いまは亡き悲願の人の悲願を継ぐ

2018-10-02 11:47:39 | 日記
十月一日(月)晴れ。

六時半に起床。たった一度の倖せがはかなく消えたネオン街 忘れられない面影を 月に写した湯の宿よ熱海の夜。が明けたら隣には大行社の丸川仁氏が寝ていた。部屋にある露天風呂に入って目を覚まそうと思ったら、我が家からラインが入った。台風で屋根にあるテレビのアンテナが壊れて、ぶら下がっている画像と、納戸の脇に置いてあった収納ボックスがバラバラになっている画像が届いた。参った。

朝食の後に、自宅に戻ろうと思っても、JRは十時過ぎまで動いていないとのこと。駅に行けば、人で溢れている。仕方がないので、正常運転に戻った新幹線にて帰宅。自宅に戻り、知り合いの電気屋さんに連絡を取って応急処置をして頂いた。自宅でほっと一息して新聞を見れば、沖縄の県知事選挙で、保守系候補が敗退とのこと。まためんどうなことになりそうだ。

私が知る限り、野村先生が尊敬した道の先輩は、三上卓、青木哲、葦津珍彦、影山正治、中村武彦、毛呂清輝の諸先生であり、意外に思うかもしれないが、河野邸焼き討ち事件にて千葉刑務所に下獄中に、先生を励まし、面会に行ったのは大日本愛国党の赤尾敏先生である。また児玉誉士夫先生は、秘書の方を通じて、度々支援をした。

野村先生の句に、いまは亡き悲願の人の悲願を継ぐ と言うものがある。前記の諸先生の悲願とは・・・。まぎれもなく維新であろう。野村先生の歌には、先駆けて散りにし人の悲しみを我がものとせむこの道を行く。と言うものもある。今は亡き悲願の人、先駆けて散りにし人、とは私にとっては野村先生に他ならない。今月の二十日は、先生のご命日の群青忌である。私はもとより、一門の、ハラワタの腐り止めの日でもある。

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熱海の夜。

2018-10-02 11:29:24 | 日記
九月三十日(日)雨。夜半に台風が直撃。

年に一度の、「日本を糺す会」に招かれて熱海行き。天気予報では、夜中に台風が関東地方を直撃するとのこと。午前中に様々な用事を済ませてから横浜駅へ。駅のアナウンスでは、台風の影響で夜八時にJRの在来線は全て運転を停止するとのこと。東京駅から乗ってくる群青の会の大熊雄次氏と愛国党の舟川孝氏と合流。一路熱海へ。まだ時折雨が降る程度で、台風の勢いは感じられない。

五時過ぎに、熱海の老舗の旅館「古屋」着。山口申、犬塚博英、小川勝正、丸川仁の諸先生と同部屋である。六時より宴会。二次会の後に、十時前に部屋に戻り、マッサージにかかって、そのまま寝た。浴場の通路に、徳富蘇峰の書の書かれた屏風があった。一回のホールには川島芳子の「一瀉萬里」の色紙もある。老舗の旅館ゆえ、文人墨客の絵や書が多い。減酒をしているので、ノンアルのビールを二本。

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ある学究の死と偲ぶ会。

2018-10-02 06:41:34 | 日記
九月二十九日(土)雨のち曇り。

その人を紹介されたのは、恐らく四十年以上も前のこと。道の先輩から「同じ横浜の人」と言うことで紹介された。私は、その時、ベレー帽をかぶった右翼と言うのを初めて見た。私よりも、一つか二つ年下だったと記憶している。聞けば、伊勢佐木町の目抜き通りで、親がカバン店を経営していると言う。その当時の私と言えば、そのお店のある伊勢佐木町の裏、つまり「親不孝通り」や歌舞伎町の縮小版のような福富町のネオンの海の中を徘徊する日々でもあった。

よって、その彼とは、酒席を共にしたり、議論したりと言うことは一度も無かった。その彼と親しく?なったのは、この二年くらい、フェイスブックを通じてである。古い知り合いなのに「バーチャル」な「友達」になった。その彼が、今年の七月十九日に「熱中症」で亡くなった。恐らく、熱中症が直接の原因ではなく、「偲ぶ会」を主催した、元日本学生同盟の委員長の方によれば、「病気の宝庫」だったそうだ。「熱中症」が引き金になったのだろうか。

FBで知ったことだが、彼は、ヒトラーやナチの研究家として、知る人ぞ知る存在であり、若い頃に三島由紀夫の「我が友ヒトラー」の舞台において、ナチやドイツ軍の制服についてアドバイスをしたと言う。当時彼は高校生。漫画家の水木しげるさんの漫画の監修もしたと聞く。

その彼の「偲ぶ会」が、市ヶ谷の旧私学会館にて行われ出席した。駅を降りたら、街が、出しゃばらず、目立たず、初志を貫徹した彼にふさわしいような霧雨に煙っていた。会場に入れば、私が知っている民族派の人たちは十人程度で、それが、のまま会場の「地味」さを際立ていた。挨拶を述べる人たちの、彼のエピソードも、浅く長い付き合いだっただけに、初めて聞く、決して、お世辞などではない、彼にふさわしい物ばかりで、とても感動した。特に、海上自衛隊の演奏会に、自費でドイツ行進曲の指揮者を呼び寄せたことや、ドイツ語が堪能であったことなど、いわゆる民族派の感性とは違った一面を知って、驚いた次第である。自宅には、膨大なドイツ行進曲やヒトラーなどに関する資料が残されているとのこと。どうしたら残せるのかと関係者が腐心しているそうだが、そう言ったものを管理したり保存したりすることは大変である。資料が散逸しないことを願うばかりである。酒を控えているので、主催者にご挨拶して、お暇した。

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ソースが好きだ。

2018-10-02 06:17:30 | 日記
九月二十八日(金)晴れ。

どうでも良いことなのだが、突然「中農ソース」を使ったものが無性に食べたくなる時がある。随分前だが、この中農ソース、地方によってはない所があると言うのを知って驚いたことがある。おでんの「ちくわぶ」もだ。そんな訳で、朝は、ロースハム、ギョニソ、目玉焼きにマツタケのお吸い物にとろろこぶ入り。ハムや目玉焼きに中農ソースをかけて、ふふふと食するときに、いつも浮かぶのが、「冬の昼 ソース嫌ひで困っている」という野村先生の句である。カレーにも醤油を入れる先生に、いつも席を少し離してカレーを食べたことを思い出す。

群青忌まで、何かと気忙しい。色々と本当に色々とやることがあって、落ち着かない。夕方まで事務所へ。その後東京へ。少々体調が悪く、群青忌まで禁酒とまではいかないが、減酒しようと思っている。

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