1月28日(土)晴れ。
今朝の朝刊に、先輩の鈴木邦男さんの死亡記事が掲載されていた。今月の11日に病院で亡くなられたそうだ。色々な意味で感慨深く、鈴木さんに関する様々な出来事が去来した。鈴木さんと初めてお会いしたのは、昭和50年頃である。核拡散防止条約の反対運動を通じてであった。しかし、お会いする前から名前だけは存じていた。確か『右翼辞典』に「民族派学生運動家」として鈴木さんや犬塚博英先輩の名前があったからである。
私が、民族派運動に入った頃、一水会の鈴木さん、亡くなられた阿部勉さん、犬塚博英先輩と、学生青年純正同盟(学純同)の初代総裁の大場俊賢先生には本当にお世話になった。当時私が主宰していた横浜青年政治研究会(横青研)という勉強会を横浜駅の西口の駅ビル内のフラワールームという貸し部屋で毎月行っていた。その講師には、前述の先輩の方々に何度も講師を努めて頂いた。
余談ながら昭和50年、いわゆる河野邸焼き討ち事件において12年の刑を終え、戦線復帰した野村先生の復帰第一声も、その私の勉強会だった。
大場先生には、勉強会やビラ貼りなどのご指導を頂き、鈴木、阿部、犬塚の諸先輩には、機関誌の作り方、既成の概念にとらわれない運動の方法を学んだ。とりわけ私が過去に行ってきた「戦跡慰霊」は、昭和57年7月に犬塚先輩、笠原正敏さん、亡くなられた大野康孝さんらが行った沖縄の祖国復帰10年を記念した「民族派学生青年有志・沖縄戦跡慰霊巡拝団」に影響されたものである。ー続くー。
夜、旧知の久田将義さんより鈴木さんの訃報に関して電話あり。