白雲去来

蜷川正大の日々是口実

鈴木邦男さんの訃報に接して。その1。

2023-02-03 18:42:13 | 日記

1月28日(土)晴れ。

今朝の朝刊に、先輩の鈴木邦男さんの死亡記事が掲載されていた。今月の11日に病院で亡くなられたそうだ。色々な意味で感慨深く、鈴木さんに関する様々な出来事が去来した。鈴木さんと初めてお会いしたのは、昭和50年頃である。核拡散防止条約の反対運動を通じてであった。しかし、お会いする前から名前だけは存じていた。確か『右翼辞典』に「民族派学生運動家」として鈴木さんや犬塚博英先輩の名前があったからである。

私が、民族派運動に入った頃、一水会の鈴木さん、亡くなられた阿部勉さん、犬塚博英先輩と、学生青年純正同盟(学純同)の初代総裁の大場俊賢先生には本当にお世話になった。当時私が主宰していた横浜青年政治研究会(横青研)という勉強会を横浜駅の西口の駅ビル内のフラワールームという貸し部屋で毎月行っていた。その講師には、前述の先輩の方々に何度も講師を努めて頂いた。

余談ながら昭和50年、いわゆる河野邸焼き討ち事件において12年の刑を終え、戦線復帰した野村先生の復帰第一声も、その私の勉強会だった。

大場先生には、勉強会やビラ貼りなどのご指導を頂き、鈴木、阿部、犬塚の諸先輩には、機関誌の作り方、既成の概念にとらわれない運動の方法を学んだ。とりわけ私が過去に行ってきた「戦跡慰霊」は、昭和57年7月に犬塚先輩、笠原正敏さん、亡くなられた大野康孝さんらが行った沖縄の祖国復帰10年を記念した「民族派学生青年有志・沖縄戦跡慰霊巡拝団」に影響されたものである。ー続くー。

夜、旧知の久田将義さんより鈴木さんの訃報に関して電話あり。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「酔い」のせいかもしれない。

2023-02-03 13:37:54 | 日記

1月27日(金)曇。

ドイツとアメリカが、最新鋭の戦車をウクライナに供与するとか。このニュースを聞いたときに頭に浮かんだのが、かつての支那事変(日中戦争)の際の「援蒋ルート」の事だ。「援蒋ルート」とは、支那事変(日中戦争)における中華民国の蒋介石政権を軍事支援するため主に米・英・ソが用いた輸送路のことである。日本と戦っている相手に武器や物資を援助する。日本にとっては完全なる利敵行為である。日米・英、すなわち連合軍との戦いは、当時の、中華民国、蒋介石政権を支援したその「援蒋ルート」に遠因がある、と指摘する人もいる。

昭和16年12月の開戦直前の御前会議。出席した陸軍参謀総長の杉山元に対して、陛下が、「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と問うと、杉山参謀総長は、「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」。すると天皇陛下は、「汝は支那事変勃発当時の陸相(陸軍大臣)である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私に対して申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」。と糾した。すると杉山は、「支那(中国)は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と答えた。

陛下は、「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」。日米戦前の有名なやりとりとして知られているエピソードである。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナへの侵攻直前に側近に対して「1,2か月で終了する」と豪語したと、まことしやかに伝えられている。プーチン大統領と杉山参謀長が重なるのは、「黒霧島」での酔いのせいかもしれない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コロナ慣れ」が一番恐ろしい。

2023-02-03 13:09:41 | 日記

1月26日(木)晴れ。

コロナウイルスのパンデミックから約三年。当初誰もが恐れ慄いたコロナも、ワクチンの接種によって、良いか悪いか分からないが、恐怖心も警戒心も薄れてきた。それでも、完全に終息するメシドは立たず、。今でも毎日罹患者の数がニュースで流れる。罹患しない保証など何もない。手洗いやうがい、マスクで予防し、あとは運を天に任すだけである。「コロナ慣れ」が一番恐ろしいかもしれない。

そのコロナに罹患した初めての人が発見されたのが中国の武漢。その武漢は、かつて日中戦争の折の激戦地であったことでも知られている。武漢作戦は、昭和十三年六月十一日 ~ 十月二十七日 、武漢三鎮攻略戦、武漢攻略戦とも呼称される日中戦争の一つの節目とされる戦いである。武漢まで戦線を広げる事になった日本軍は、天然の要害である首都重慶の攻略が困難な事を悟らされてそこで手詰まりとなり、以降は終結への道筋が付かない泥沼戦争に引きずり込まれた。

徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の三十万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は昭和十三年五月五日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。中国側の呼称は武漢会戦。または武漢保衛戦という。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする