白雲去来

蜷川正大の日々是口実

鈴木さんの訃報に接して。最終回。

2023-02-04 14:14:06 | 日記

1月30日(月)晴れ。

その頃だった、一水会が主催した野村先生の講演会で、先生が「鈴木君と個人的には付き合うが、思想的には決別する」と発言したことを良く覚えている。確か、その時の司会は、現在、政経調査会を主宰している槙泰智さんだったと記憶している。そう感じていたのは、野村先生や私だけではなく、一水会の周辺に居た人たちも、徐々に鈴木さんから距離を置くようになって行った。

改めて、鈴木さんの著作を調べてみたら、鈴木さんがリベラル的な発言が多くなった以降の著作物には、ほとんど知らないものが多い。敢えて興味を持たなかったのかもしれない。それでも、会合や集会などでお会いすれば、必ずご挨拶に行ったし、お世話になった先輩に対する礼だけは失していなかったと思う。その際に、お世辞半分、「蜷川君。君は文章が上手なのだから、酒ばかり飲んでいないで、本でも書きなさい」と良く言われた。他の人から、そんなことを言われたのならば、「大きなお世話」と思うのだが、鈴木さんに言われると、ストイックな生き方をしていることを知っていただけに、反論のしようがなかった。

たまにお見掛けする鈴木さんの姿に異変を感じたのは、五、六年くらい前のことだったろうか。私の記憶では、最後にお会いしたのは、三浦重周さんの追悼祭「早雪忌」の会場だったと思う。その時は、女性が付き添っていたが、誰が見ても、一人で行動するのは、無理ではないかと思うような変わりようだった。その後、鈴木さんが病気が進行して入院し、面会もできない。というようなことを風の便りに聞いた。そして先日の訃報・・・・。

直接ご指導を頂いた野村先生はもとより、私は鈴木、阿部、犬塚といった先輩の背中を見続けて来たように思う。そして教わったことは、とても多い。それ故に、鈴木さんのリベラル化が残念でならなかった。鈴木さんの訃報に接し、私の個人的な思いを綴ってみた。 合掌。

 

 


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鈴木さんの訃報に接して。その2。

2023-02-04 14:06:36 | 日記

1月29日(日)晴れ。

私の「物を書く」ことの最初は一水会の機関紙『レコンキスタ』である。昭和62年の「住友事件」にて東京拘置所に座っている時のこと。その思いを『レコンキスタ』に何度か書かせて頂いた。野村先生らの「経団連事件」、私たちの「住友事件」を積極的に支援と支持をしてくれたのも、鈴木、阿部、犬塚と言った初期一水会の先輩たちで、どれほど勇気づけられたかは、言葉では言い表せない。当時、私と同じ東拘の屋根の下にいた、連合赤軍の植垣康博さんや、「ロス疑惑」の三浦和義さんを「そこの大先輩なのだから、色々と教わって下さい」と紹介して頂いたのは鈴木さんだった。それが縁となり、私が戦線復帰すると、遅れて植垣、三浦の両氏も社会復帰。以後、野村先生の追悼祭「群青忌」には、必ず出席してくれるようになった。しかし、その三浦和義さんは2008年に亡くなられ、植垣さんは、脳梗塞で倒れ、現在社会復帰を目指してリハビリ中と聞く。一日も早いご快癒を願うばかりである。

鈴木さんの数多の著作物の中では、初期の頃の、『腹腹時計と狼』『行動派のための読書術』『証言・昭和維新運動』『新右翼・民族派の歴史と現在』『遺魂-三島由紀夫と野村秋介の軌跡』などの本が印象深く、現在も書棚にある。

鈴木さんの思想的な軸が何か、左にブレているような発言が多くなったのは何時頃からだったのだろうか。それは、鈴木さんの信念に基づいての考えや発言だったのだろうが、偏狭な私は、失礼ながら、それが鈴木さんの「進化?」ではなく、「変節」としか思われなかった。過去の、戦闘的な日本主義者であった頃の鈴木さんを知っているだけに、申し訳ないが、発言や文章に、嫌悪を感じたのも事実である。ー続くー


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