4月26日(水)雨。
朝食は、最後のカツオ、竹輪の天ぷら、卵スープ。昼は、ハムトースト一枚。夜は、豚肉とナスのオイスターソース炒め、コンニャクの炒め物、キュウリのナムル。お供は「三岳」。酔狂亭にて独酌。頑張って、二日分を更新。
過ぎてしまったが今月の15日は、盟友だった国防青年隊の初代会長の渡邉康司さんの御命日。平成8(1996)年の今日亡くなられた。まだ45歳という若さで、ご健在なら私と同じ歳で72歳だ。彼のお墓参りに行った11年前のブログがある。読んでいない方もいると思うので、アップさせて頂く。
保土ヶ谷から午前十一時の横須賀線で、戸塚へ、そして東海道線に乗り換えて鴨宮で下車。タクシーでお寺まで行こうかとも思ったが、時間も早く、天気も悪くないので歩いて行くことにした。駅で聞けば、お寺までは二十分ほどの道のりとのこと。JRの鴨宮で降りるのは初めての事である。その手前の二宮や大磯へは、かつて大日本殉皇会の小早川貞夫先生がご健在の頃は、ご自宅にうかがう為に利用したことがある。東海道線の車窓から、大磯、二宮の景色を見ながら、初めて小早川先生宅を訪れた昭和四十七年当時の事を思い出した。
鴨宮の駅を降りて歩いていると、吹く風に海の香りがする。昼時なのに町に人影がほとんど見えない。車の通る音よりも風の音がうるさいくらいだ。知らない町を歩くのが好きだ。旅が手頃でなかった時代に、「遠くへ行きたい」という歌が流行った。「知らない町を歩いてみたい。どこか遠くへ行きたい」。そんな暇も、金も、勇気もない癖に、その歌で「知らない町」を夢想した。本当に静かな町を歩いていると、「遠くに行きたい」の歌が、頭の中でリフレーンして聞こえてきた。法事に出席する人が、私に気付いて車に乗らないかと誘ってくれたが、もう少し歩いてみたかったので、固辞した。
渡邉君の眠るお墓は、西湘バイパスのすぐ横にある。平成八年に彼は四十五歳と言う若さで突然この世を去った。亡くなる前日、あるパーティーで一緒になり、二次会に誘われたが、断ってしまった。その日の事が胸の痛みと一緒に甦ってきた。彼のお墓に来るのは随分と久しぶりの事だ。そのことに対する思いが、歩くことで癒されるかもしれないと思ったのだ。一時から法要が始まった。亡くなった当時のままの彼の遺影がある。生きている私たちだけが年老いて行く。追悼を重ねて行くということは、すなわち生きていることへの言い訳をしているのかもしれない。※昭和52年7月、新宿花園神社にて行われた「経団連事件支援集会」にて連帯の挨拶をする渡邉氏。