5月3日(水)晴れ。
『十字路が見える』の本の帯に、こういう文章がある。「私は、貧乏なのである。しばしば私の家に遊びに来る孫たちに、いつも言われる。爺ちゃんは、勉強ばかりしていてはいけないよ。きちんと仕事をしなくちゃ駄目だよ。ぼくの家は、パパが毎日会社に行っているから、大丈夫なんだよ。爺ちゃんは、勉強ばかりして貧乏でかわいそうだ。家だって、ぼくんちは真っ白だけど、爺ちゃんちは古い。四歳と三歳の、年子の男の子である」(「貧乏爺ちゃんは今日も征く」)
私も、子供が小さい頃に、同じようなことを言われたことがあった。二人の子供が、真面目な顔をして私の前に来て「とーたん質問」。「およその家に行くと、お父さんがいなくて、お母さんがいるのに、どうして家は、毎日、お母さんが会社に行って、とーたんがお家にいるの。毎日、何をしているの」。と聞かれたことがあった。「とーたんだって仕事をしているよ」。「何のお仕事をしているの」。「本を書いたり、雑誌を作ったりしているんだよ」。「どんな本を書いているの。見せてよ」。うーんこれには困った。当時、連載させて頂いていたのは『実話ドキュメント』や『実話時報』といったいわゆる「実話系」の雑誌や保守、民族派関係の機関誌・紙などである。さすがに子供たちにそれらを見せるわけには行かず、「大きくなれば分かるから」とあいまいに答えたら。「毎日、家に居て、お酒ばかり飲んで、ちえちゃん(女房のことです)が可哀そう」と泣かれてしまった。
その頃か、筑摩書房の月刊誌「ちくま」に、当時の編集長のお世話で、「読書論」を三回ほど書かせて頂いた。私の原稿の載っている所をさりげなく開いて、テーブルの上に置いておいたら上の子供が、妹に「ほら、とーたんの名前が出ているよ。ちゃんと仕事をしてるんだね」。