5月9日(火)晴れ。
朝食は抜いた。昼は、コロッケ2個、目玉焼きにキャベツの千切り、シジミの味噌汁。夜は、ポークソテー、チヂミ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。
私が子供の頃には、早朝から色々な物を売りに来る人達がいた。リヤカーであったり「ぼてふり」(棒手振・魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を上げながら売り歩くこと)の人達だ。確か、朝が一番早かったのは、新聞配達。これは今でも一緒だ。次が「納豆売り」。「なあっとーう、なあっとーう」という掛け声を今でも覚えている。夕方は、豆腐屋さん。そのラッパの音を聞くと、「ああ、もうすぐご飯だから帰らなければ」と思ったものだ。後は、「金魚屋さん」と「アサリとシジミ」売り。この売り声も覚えている。「あっさりぃー、シッジミィー」。これをもじって「あっさり、死んじめぇー」と言って怒られたことがある。20年ほど前までは、夏になると関内の繁華街に風鈴の行商が出ていて、何度か買ったことがあった。こういった物売りが来ると、時計の普及していない頃でも、時間が分かったものだ。そこで「先々の時計となりや、小商人(こあきんど)」という川柳が出来た。
銭湯も随分と少なくなった。子供の頃は、各町内に一軒ぐらい銭湯があったものだ。そのお風呂屋さんの煙突から煙が上がると2時頃で、近所の工場からサイレンが聞こえると5時。外で遊んでいた私たち悪童は「カエルが泣くから、かぁーえろう」と言って自宅に戻った。まだ家にお風呂のある家庭も少なく、銭湯も子供たちの遊び場。シャワーなどなく、皆、桶にお湯を入れて頭を洗っていた。風呂屋の下駄箱の番号も、長嶋の3番と、王選手の1番、両方ない時は、川上の16番が取り合いになった。道路も下町の路地などは、舗装がされておらず、雨が降れば水たまりに嵌って、良く靴を汚した。小学生の低学年の頃は、学校から帰ってくると、下駄に履き替えて遊びに行った。昭和の30年代の半ばの頃の話。最近はスーパーに行くと、シジミの値段を見ると驚くほど高い。そしてアサリはほとんど中国からの輸入品だ。どうなってんだか。