十一月十六日(木)晴れ。
このブログなのか、それともフェイスブックなのか、私が連載させて頂いている『実話ドキュメント』なのか・・・。どこに書いたのかさっぱり思い出せない。どんな物かと言えば、私は、記念写真が好きで、旅に出ると、必ず一冊アルバムを作る。酔いに任せて、旅のアルバムを開けば、野村先生や、友人のことなどが浮かぶ。家にいながら旅の感傷に酔えるのだ。旅行から帰ってきて、フィルムを現像し、それを見ながらアルバムに貼ることの楽しさ。ホテルの絵葉書や領収書。旅先で行ったレストランのコースターや箸袋なども一緒にアルバムに貼る。そのアルバムも、数が多すぎて自宅に置くことが出来ずに、ほとんど事務所に保管した。
最近はデジカメのせいか、現像する必要がなくなり、撮り放題である。撮ったものはPCのハードディスクに収めてあるのだが、整理が悪く、「あの旅の写真は、何処にあるのだろう」と、探すのが大変である。こういった思いは、どうやら私だけではないようで、『週刊新潮』の十一月十六日号に数学学者の藤原正彦氏が、コラム「菅見妄語」の中にこう書いている。
「ここ十数年にとった写真は見ることが少ない。主因はデジタル化のせいである。デジタルカメラだとフィルム代がかからないから、とられた写真の数はかつての何倍にもなっている。先日もベルギーとオランダを一週間旅しただけで百数十枚はとった。それら写真はそのままパソコンにしまってある。友達に写真を送るのも、パソコからパソコンでできるから、プリントすることはめったになくなった。アルバムを一切作らなくなってしまったのだ。アルバムが本棚にあれば、背表紙にある夕イトルや西暦を見て、ふと懐かしくなり手を伸ばして開いて見たりするが、パソコンにしまってある大量の写真からお目当てのものを探すには、幾つものプロセスが必要で、ひょいと手を伸ばすというとにならないのだ。機械の中の写真は、アルバムの中のものに比べ、はるかに遠い存在となる。」
やっぱりなぁー。アナログ世代の共通の感慨かもしれない。
事務所で、一日、機関誌の製作。終了後は、寒いので、酔狂亭で「鳥鍋」で一杯。お供は「伊佐美」。
このブログなのか、それともフェイスブックなのか、私が連載させて頂いている『実話ドキュメント』なのか・・・。どこに書いたのかさっぱり思い出せない。どんな物かと言えば、私は、記念写真が好きで、旅に出ると、必ず一冊アルバムを作る。酔いに任せて、旅のアルバムを開けば、野村先生や、友人のことなどが浮かぶ。家にいながら旅の感傷に酔えるのだ。旅行から帰ってきて、フィルムを現像し、それを見ながらアルバムに貼ることの楽しさ。ホテルの絵葉書や領収書。旅先で行ったレストランのコースターや箸袋なども一緒にアルバムに貼る。そのアルバムも、数が多すぎて自宅に置くことが出来ずに、ほとんど事務所に保管した。
最近はデジカメのせいか、現像する必要がなくなり、撮り放題である。撮ったものはPCのハードディスクに収めてあるのだが、整理が悪く、「あの旅の写真は、何処にあるのだろう」と、探すのが大変である。こういった思いは、どうやら私だけではないようで、『週刊新潮』の十一月十六日号に数学学者の藤原正彦氏が、コラム「菅見妄語」の中にこう書いている。
「ここ十数年にとった写真は見ることが少ない。主因はデジタル化のせいである。デジタルカメラだとフィルム代がかからないから、とられた写真の数はかつての何倍にもなっている。先日もベルギーとオランダを一週間旅しただけで百数十枚はとった。それら写真はそのままパソコンにしまってある。友達に写真を送るのも、パソコからパソコンでできるから、プリントすることはめったになくなった。アルバムを一切作らなくなってしまったのだ。アルバムが本棚にあれば、背表紙にある夕イトルや西暦を見て、ふと懐かしくなり手を伸ばして開いて見たりするが、パソコンにしまってある大量の写真からお目当てのものを探すには、幾つものプロセスが必要で、ひょいと手を伸ばすというとにならないのだ。機械の中の写真は、アルバムの中のものに比べ、はるかに遠い存在となる。」
やっぱりなぁー。アナログ世代の共通の感慨かもしれない。
事務所で、一日、機関誌の製作。終了後は、寒いので、酔狂亭で「鳥鍋」で一杯。お供は「伊佐美」。