白雲去来

蜷川正大の日々是口実

私はソース派。

2024-10-18 13:09:24 | 日記

10月17日(木)曇り。

私が20代の前半の頃、山下町はニューグランドホテルの裏側に朝までやっているレストランがあった。(現在は場所を少し移動して営業している)そのお店で、モーニングを食べに行った時に「ハムエッグスをオーダーしたら、従業員から「卵の焼き方はどうしますか」と聞かれて、えっと?マークが幾つも頭に流れた。ハムエッグスと言えば「目玉焼きのハム添え」だと思っていた私は、とても驚いたのである。当然一緒に行った友人も知らない。とりあえず「目玉焼き」と頼んだが、ウェイターも恥をかかせてはいけないと思ったのか、しばらくして「目玉焼きのハム添え」が二皿テーブルに届いた。

目玉焼きのことを「サニーサイドアップ」と言うことを知ったのは、それからしばらくしてからだが、恥ずかしくて言ったことはない。オムレツ、スクランブル、茹で卵でもハムを添えたら皆、ハムエッグス。私は、ソース派で、目玉焼きには、必ず中濃ソースをかけて食べる。しかし、困ったことに、その中濃ソースだが、ホテルやレストランには、まず置いていない。海外ではなおさらである。ソースは元々輸入品だと思っていたので、海外のホテルなどに置いていないのは意外だった。国内、国外へ旅するときは必ず、コンビ二などで小さい中濃ソースを買って持って行く。野村先生は醤油派で、句集『銀河蒼茫』の「冬の部」の中に、「冬の昼 ソース嫌ひで困ってをる」という句があるくらいだ。先生のお供で海外に行く時は、いつも私が「醤油番」だった。

コロッケも、アジフライ、カキフライ、エビフライもトンカツも皆ソース。特にトンカツは、練り辛子をソースと混ぜて、それにつけて食べるのが好きだ。付け合わせのキャベツにもソース。天ぷらは、塩。コロッケに醤油をかけて食べる人を見て、新鮮に驚いたことを覚えている。夜は、おとなしく酔狂亭にて月下独酌。


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孤高の人。

2024-10-15 09:50:00 | 日記

10月14日(月)晴れ。

珍しく朝食を食べる。メニューはハムトーストにコンソメスープ。午後から愚妻を伴って入院中の木村ゆかりさんのお見舞いのために東京は赤羽橋のS病院へ。ゆかりさんは、ボランティア活動家(そういう言葉があるのかは知らないが)として有名な人である。東に災害があれば東に行き、西に大雨、地震が起きたと言えば西に行き、ウクライナで紛争があると知れば、ウクライナに行く。弊誌『燃えよ祖国』にも、ゆかりさんの「ウクライナ便り」を掲載させて頂いている。

野村事務所は、かつては浜松町の駅の近くにあった。その頃から編集の手伝いをして貰っていた。その後、事務所が赤坂のみすじ通りに移転した際も、事務所に来て頂いた。何か月か働くと、インドを放浪したり、アメリカに行ったりと、我々の古い言葉で言えば大陸浪人のような生き方をしていた。確か、その頃だと思うが、確かなタイトルは失念したが、彼女の生き方を追った「六本木ビルの屋上に住む人」(正確なタイトルではないが)というドキュメンタリーが放映されたことがあった。事務所にあると思うので、探して見るつもり。

その彼女に、すい臓がんが見つかった。聞けばステージ4とのこと。入院した当時は抗がん剤の治療などで辛そうだったが、幸いに抗がん剤が効いて、少し体調が良いと聞いてのお見舞いとなった。休憩室で本を読んでいた彼女と面会。つらい抗がん剤治療にも耐えていつもの笑顔があったが、常に自分のことよりも、災害地、紛争地の人たちのことを考えて行動してきた彼女が、癌になるなんてとても信じられない気持である。彼女がボランティアをしていた能登から大勢の人たちがお見舞いに来たため、ご挨拶をしてお暇した。そういえば、彼女のパートナーであるヒコさんともお会いした。彼は、有名なパンク・バンド、ガーゼの元ドラマーとしても、有名である。木村ゆかりさん。孤高の人である。

御徒町にて、群青の会の大熊雄二氏と待ち合わせて福田和也氏が好きだったという蕎麦屋「吉仙」へ。福田氏を偲んで一献。スタッフに福田和也を知っている?と聞いたら、「先日もお客さんに聞かれましたが知りません。以前お店に同姓同名の従業員がいまして退職しました」。ひっくり返りそうになった。

今年の群青忌は、札幌の梶浦直樹氏、京都の仙人こと山内愁雲氏、新潟の山田喜一氏そして木村ゆかりさんなどが体調不良などで参加できない。寂しいものになりそうである。


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われ死なば火にはくぶるな栄川の二級に浸して土に埋めよ

2024-10-11 11:58:37 | 日記

10月10日(木)曇り。

野村先生が定宿としていたのがローマ風呂で有名な熱海の大野屋。私も2度ほどお供をして泊ったことがある。野村先生が、昭和50年に「河野邸焼き打ち事件」にて12年の刑を終了し戦線復帰し、熱海の大野屋で静養していた。そこを訪ねたのが阿形充規先生だった。阿形先生の先輩であり、やはり千葉刑務所に服役していたF氏の伝言を預かり、それを聞くために阿形先生が、大野屋に野村先生を訪ねる。正に、人の一生は邂逅の一語に尽きるで、其の後、阿形先生は民族派運動に邁進して行く。現在の大野屋は何とか言うお茶屋さんに買収され、高級旅館から大型銭湯のようになってしまった。

その大野屋に支配人として勤めていた方は、野村先生はもとより、先生のご家族とも懇意にしており、群青忌の出席や、ご家族と共に横浜に来て一献酌み交わしたこともある。その方から平成五年の10月の先生が自決なされる一週間ほど前に、作家の山平重樹さんを伴って大野屋を訪れた時のことや、元楯の会の故阿部勉さんの思い出などを書いた手紙と共に、会津の銘酒「栄川」(えいせん)をご恵送頂いた。

私が道の兄と慕った阿部勉さんは平成11(1999)年10月11日に肺がんで亡くなられた。享年53歳。森田忠明さんが主宰していた櫻風亭歌會が中心となって平成十年に出版した合同歌集『國風(くにぶり)』という本の中に、多くの民族派諸兄に交じって、阿部勉さんも短歌を投稿している。「春も酒」と題した八首はいかにも阿部さんらしいニヒルで酒を愛し、また浪人の風情に溢れた秀逸なものばかりである。その八首の最後の歌が、阿部さんの「辞世」と言われている歌である。

 われ死なば火にはくぶるな「栄川」の二級に浸して土に埋めよ

なぜ阿部さんの郷里の秋田の酒ではなくて、会津の酒なのか不思議だが、そんなことはどうでも良いか。明日は阿部さんの25回目のご命日。阿部さんを偲んで一杯やるか。※昭和60(1985)年8月17日。下田旅行の途中、熱海駅にて。左より、故板垣哲雄、蜷川、花房東洋、故阿部勉の諸氏と。

 


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浅田次郎さんの本。

2024-10-10 14:22:10 | 日記

10月9日(水)雨。

いやはや寒い一日だった。何でも11月中旬の寒さだという。起きたのが遅かったので、昼食を自宅近くのガストへ。平日とあってか店内は、高齢者が多かった。ハンバーグに目玉焼き添えセットにから揚げ3個。午後は、事務所に行ってから自宅のPCで仕事。青森の社友が送ってくれたコーヒーが今日の寒さの中で美味しさが増す。

何の脈絡もないが、好きな作家の浅田次郎さんと私は同じ歳である。しかし浅田さんは11月生まれで、私は3月の早生まれなので同じ歳だが、学年は私の方が一つ上になる。随分前に読んだのが『蒼穹の昴』19世紀末、中国清朝末期の紫禁城を舞台にくり広げられる壮大な歴史絵巻である。この本を後輩に勧め、その後輩が感動したのか、自分の団体の名前を蒼穹社とした。何年か前に北京を訪れた折に故宮博物院・紫禁城を見学した際には、浅田さんの『蒼穹の昴』や『珍妃の井戸』の本のことを思い出し、良いガイドブックになった。現在読んでいるのが『アジフライの正しい食べ方』(小学館)。JALの機内誌「SKY WARD」に浅田さんが連載しているものをまとめた本だ。

その中に、モロッコはマラケシュのホテル「ラ・マモーニア」に泊まったことが書いてある。確か、同じ浅田さんの『つばさよつばさ』にも、そのホテルのエピソードがあったと記憶している。第二次世界大戦中に連合国の首脳に寄った行われた「カサブランカ会議」の帰りにチャーチルがルーズベルトに「君を世界一楽しい場所に連れて行ってあげよう」と「ラ・マモーニア」に誘ったそうだ。また、ヒッチコックの有名な『鳥』はこのホテルのカフェテラスで着想を得、『知りすぎていた男』の撮影にも使われたと書いてある。

その有名なホテルに野村先生のお供をして泊ったのは、平成5(1993)年の8月のことだった。当時は、そんな有名なホテルとも知らず、同行したカメラマンの「不肖・宮嶋」さんとバーで一杯やっただけだった。二泊したと言っても、ほとんど観光に出ていたので、ホテルでゆっくりしたという記憶がない。浅田さんの本を読んで、ヘェー。という感じがした。

 


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来て良し、帰って良しか。

2024-10-08 13:19:42 | 日記

10月6日(日)雨のち晴れ。

今日で、断食は終わり。来て良し、帰って良しか。六時に起きるが、外は小雨で、お椀をさかさまにした様な大室山が小雨に煙っていた。風呂に入って帰り支度。八時半に朝食。小アジの干物やおしたし、サラダなど昨日までの断食食が嘘のようだ。食後に、クラッシュ肝臓ガールのお二人やY社長などの岩手に帰る人たちや盟友を駅で見送って私も帰路につく。

来た時と同じ135号線を走る。途中に、いつもニューサマーオレンジを買うお店に寄って早生ミカンを買う。「まだそれほ甘くい」とのことで一袋だけにした。伊東の道の駅で佃煮などを買う。伊東から熱海までの海岸線を走るのが好きだ。山越えをすると30分ほど短縮になるが、道路が曲がりくねって運転しずらく好きではない。私は、山より海が好きだ。ナビは熱海を過ぎると西湘バイパスの方向に連れて行きたがるが、日曜日の西湘バイパスは何時も混むので、無視して箱根小田原方面から東名に入った。自宅に着いたのは一時半。行きも帰りも三時間。

夜は、さすがに酒を抜いて、冷奴、はんぺん焼、サワラの干物にノンアルコールビールを二本飲んで寝た。昨日、盟友と行った伊東のマッサージは、正に「神の手」で、これまで色々な所でマッサージを受けたが、ここに勝る所はない。施術をする人が一人しかいないので、盟友が受けている間、待っていなければならないが、それを差し引いても通いたくなる。ここのマッサージを受けるためだけに伊東へ行こうとも思ってしまう。まだ体が軽い。※断食最終日の朝食。


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