もうずいぶん前になりますが,ブログを始めたことを何人かの友人たちに知らせました。そのうちひとりの返信にちょっと変わった内容のものがありました。彼はスピノザを知らなかったのですが,彼には「スピノザ」ということばが卑猥に響くようで,何だかHなことばみたいなのだそうです。僕はそんなふうに感じたことはなかったし,こんなふうにいわれたことも初めてでした。人の感覚というのはなかなか不思議で理解しがたいものです。でも,実は僕にもひとつ,彼にとっての「スピノザ」があります。神奈川に真鶴という町があるのですが,この「まなづる」という響きが僕にはどうにも猥褻に感じられるのです。そういえば昔,カキノマナズルという名前の馬がいました。「マナズル」+「カキノ」というのは,僕にはなおさら卑猥に感じられました。
すべての形相的事物にその観念があって,その両者は同一の個体であり合一しているということから,次のことが結論として得られます。すなわち,どんなものでも,それが実在するとなると,思惟の属性以外の何らかの属性(その事物が形相的に実在するときの属性。物体の場合は延長の属性)の様態として存在すると同時に,思惟の様態(その観念)としても実在するのです。すなわち,自然のうちには,思惟の様態として実在しないものは何もなく,しかし,思惟の様態として単独に実在するものも何もないのです。まあ,我々人間が知覚し得るのは思惟の様態を除外すれば物体だけですから(第二部公理五),分かりやすくするために物体だけで考えますが,人間も馬も蜘蛛も雑草も石鹸も三角形も,延長の様態(物体)であると同時に,実は思惟の様態でもあるのです。
すべての形相的事物にその観念があって,その両者は同一の個体であり合一しているということから,次のことが結論として得られます。すなわち,どんなものでも,それが実在するとなると,思惟の属性以外の何らかの属性(その事物が形相的に実在するときの属性。物体の場合は延長の属性)の様態として存在すると同時に,思惟の様態(その観念)としても実在するのです。すなわち,自然のうちには,思惟の様態として実在しないものは何もなく,しかし,思惟の様態として単独に実在するものも何もないのです。まあ,我々人間が知覚し得るのは思惟の様態を除外すれば物体だけですから(第二部公理五),分かりやすくするために物体だけで考えますが,人間も馬も蜘蛛も雑草も石鹸も三角形も,延長の様態(物体)であると同時に,実は思惟の様態でもあるのです。