10日の四日市記念の決勝。並びは中野‐新山‐佐藤‐大森の北日本,寺崎‐三谷の近畿,伊藤‐井上の九州で柴崎は単騎。
伊藤と大森がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入った伊藤が前受け。3番手に柴崎,4番手に中野,8番手に寺崎で周回。残り3周のホームから寺崎が上昇。中野の横で併走になりました。バックで中野が引いたので,4番手に寺崎,6番手に中野となって一列棒状。残り2周のホームから引いた中野が発進。バックで伊藤を叩きました。この間に飛びつきを狙った寺崎が,大森の追走を阻んだので,4番手に寺崎。マークの三谷を挟んで6番手に大森という隊列に。バックに戻って新山が中野との車間を開けて待機。寺崎の発進に合わせて番手捲り。この競り合いを制した新山が優勝。捲った寺崎が1車身半差で2着。新山マークの佐藤が1車輪差で3着。
優勝した青森の新山響平選手は2022年の競輪祭以来の優勝。記念競輪は2020年3月の玉野記念以来となる5勝目。四日市記念は初優勝。このレースは北日本ラインの厚みが他を圧倒していて,それを生かしての優勝。S班に在籍しているように力量は確かで大きく崩れはしないのですが,これが今年の初優勝であり,昨年も優勝がないという勝ち味には遅いタイプ。その点はいささか心配しましたが,さすがにこのラインでこの展開になれば優勝は譲れない選手でした。欲をいえば,このレースは展開的に中野を残すのは難しかったので仕方がありませんが,佐藤を2着に引き込むような走りが必要だったと思います。
このことに関してはさらに次の点にも気を付けておかなければなりません。
もし自然法lex naturalisの概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,自然状態status naturalisは危険な状態であるから人びとは社会契約を締結して共同社会状態status civilisで生活するようになるということは自然法に属するとはいえず,共同社会状態での権力が共同社会を構成する人びとの利益utilitasを顧みないとその権力が持続することができなくなるということは自然法に属するといえることになると僕は考えます。ただ,権力が共同社会の構成員の実質的利益を考慮するというとき,それは実質的な利益が構成員に齎されているということを必ずしも意味しません。というのは,この場合は社会契約を破棄するのは構成員であって権力者の側ではないので,構成員が自身の利益が保証されていると認識しているのであれば,この権力は継続することになるからです。しかるに現実的に存在する人間は,自身の利益を必ず十全に認識するcognoscereのかといえばそういうわけではありません。混乱して認識するという場合もあるわけです。スピノザの哲学で利益というのはまず自然権jus naturaeの根拠ともなる第三部定理七から図られることになるのですが,実際には自身の利益になっていない事柄を,自身の利益になっていると思い込むことは人間にはあるのであって,そうしたことが共同社会状態の構成員に共有されているのであれば,その共同社会の社会契約は破棄されないので共同社会が継続することになり,権力も持続することになります。逆に,本来は自身の利益である事柄を不利益であると思い込むことも人間にはありますから,その場合はその混乱した認識cognitioの下に社会契約が破棄されてしまうということがあり得るのであって,こうした事情によって共同社会の社会契約が破棄され,権力が移行するということも起こり得るのです。つまり構成員の実質的利益を権力が考慮するということは,権力の持続が構成員の利益になっていると思うような状態にするという意味であり,逆に構成員の利益を顧みないというのは,構成員がそのように思うことに配慮しないという意味です。なので実際は構成員の利益に適っていない権力が持続するdurareことも起こり得るのです。
伊藤と大森がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入った伊藤が前受け。3番手に柴崎,4番手に中野,8番手に寺崎で周回。残り3周のホームから寺崎が上昇。中野の横で併走になりました。バックで中野が引いたので,4番手に寺崎,6番手に中野となって一列棒状。残り2周のホームから引いた中野が発進。バックで伊藤を叩きました。この間に飛びつきを狙った寺崎が,大森の追走を阻んだので,4番手に寺崎。マークの三谷を挟んで6番手に大森という隊列に。バックに戻って新山が中野との車間を開けて待機。寺崎の発進に合わせて番手捲り。この競り合いを制した新山が優勝。捲った寺崎が1車身半差で2着。新山マークの佐藤が1車輪差で3着。
優勝した青森の新山響平選手は2022年の競輪祭以来の優勝。記念競輪は2020年3月の玉野記念以来となる5勝目。四日市記念は初優勝。このレースは北日本ラインの厚みが他を圧倒していて,それを生かしての優勝。S班に在籍しているように力量は確かで大きく崩れはしないのですが,これが今年の初優勝であり,昨年も優勝がないという勝ち味には遅いタイプ。その点はいささか心配しましたが,さすがにこのラインでこの展開になれば優勝は譲れない選手でした。欲をいえば,このレースは展開的に中野を残すのは難しかったので仕方がありませんが,佐藤を2着に引き込むような走りが必要だったと思います。
このことに関してはさらに次の点にも気を付けておかなければなりません。
もし自然法lex naturalisの概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,自然状態status naturalisは危険な状態であるから人びとは社会契約を締結して共同社会状態status civilisで生活するようになるということは自然法に属するとはいえず,共同社会状態での権力が共同社会を構成する人びとの利益utilitasを顧みないとその権力が持続することができなくなるということは自然法に属するといえることになると僕は考えます。ただ,権力が共同社会の構成員の実質的利益を考慮するというとき,それは実質的な利益が構成員に齎されているということを必ずしも意味しません。というのは,この場合は社会契約を破棄するのは構成員であって権力者の側ではないので,構成員が自身の利益が保証されていると認識しているのであれば,この権力は継続することになるからです。しかるに現実的に存在する人間は,自身の利益を必ず十全に認識するcognoscereのかといえばそういうわけではありません。混乱して認識するという場合もあるわけです。スピノザの哲学で利益というのはまず自然権jus naturaeの根拠ともなる第三部定理七から図られることになるのですが,実際には自身の利益になっていない事柄を,自身の利益になっていると思い込むことは人間にはあるのであって,そうしたことが共同社会状態の構成員に共有されているのであれば,その共同社会の社会契約は破棄されないので共同社会が継続することになり,権力も持続することになります。逆に,本来は自身の利益である事柄を不利益であると思い込むことも人間にはありますから,その場合はその混乱した認識cognitioの下に社会契約が破棄されてしまうということがあり得るのであって,こうした事情によって共同社会の社会契約が破棄され,権力が移行するということも起こり得るのです。つまり構成員の実質的利益を権力が考慮するということは,権力の持続が構成員の利益になっていると思うような状態にするという意味であり,逆に構成員の利益を顧みないというのは,構成員がそのように思うことに配慮しないという意味です。なので実際は構成員の利益に適っていない権力が持続するdurareことも起こり得るのです。
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