『生き抜くためのドストエフスキー入門』で展開されている汎悪霊論は,文学評論としては成立しますがスピノザの哲学の理解としては不適切です。ここではなぜスピノザの哲学の理解としてこの論述が不適切であるのかを説明します。
スピノザの哲学は基本的に唯名論を採用しています。これはスピノザがことばと観念ideaは異なるものだと考えているからであって,ことばによって事物を理解することには重きを置かず,事物の十全な観念idea adaequataを形成することに重きを置いているからです。スピノザはことばによって事物を認識するcognoscereことは基本的に表象imaginatioであり,その観念は十全な観念ではなく混乱した観念idea inadaequataであるといいます。したがって神Deusとか悪霊といった語によってそれを表象するimaginariことには意味がありません。神の本性essentiaとは何か,悪霊の本性とは何かを理解するintelligereことが重要なのです。
スピノザは第一部定義六で神を定義していますが,そこでは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成される実体substantiamが神であるとされています。このとき,神というのは命名にすぎません。いい換えれば,あるものが神といわれるならばそれは無限に多くの属性によって本性を構成される実体でなければならないという観点からこう定義されているのではなく,無限に多くの属性によって本性を構成される実体があれば,それをスピノザは神というという観点からの定義Definitioなのです。したがって,無限に多くの属性によって本性を構成される実体が神といわれなければならない積極的な理由があるわけではありません。単にスピノザはそのようにいうというだけです。
よってスピノザは,無限に多くの属性によって本性を構成される実体を悪霊というということもできたわけです。そしてこの場合はスピノザの哲学は汎神論ではなく汎悪霊論であるということになるでしょう。つまり汎神論であろうと汎悪霊論であろうと,スピノザの哲学の内実は変わるわけではありません。ただ神といっているところのものを悪霊といい換えるというだけにすぎないのです。
社会契約説を軽視する,とくに『国家論Tractatus Politicus』にはそういう傾向が強いですから,そこでいわれている自然状態status naturalisが,現に存在したとされる状態であるのか,それとも架空の,いわば理性の有entia rationisのような概念上の状態であるのかということは,そこまで突き詰めて考える必要はないといえます。ですから,僕のように,自然状態は社会契約説によって国家Imperiumの成り立ちを説明するための概念上の状態であって,人類の歴史のうちでそのような状態は存在したことがないと理解するとしても,スピノザの政治論を正しく理解する上で大きな問題を齎すことはないでしょう。
『国家論』の第二章第一五節の冒頭で,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の自然権jus naturaeの下にあるといえるような状態のことを自然状態といった直後で,この自然状態においては各人の自然権は無に等しいという意味のことをスピノザはいっています。したがって,スピノザは自然状態においては,各人が他の圧迫を防ぎ得ないと考えているわけで,この点からみれば,各人が他の圧迫を防ぎ得ない状態のことを自然状態であるとスピノザは規定しているとみることもできるでしょう。この種の自然状態の概念notioは,ホッブズThomas Hobbesがいっている,万人の万人に対する戦争状態としての自然状態に近似しているといえます。実際に吉田も指摘している通り,スピノザは『国家論』において自然状態を規定しているわけではないのですから,その自然状態を,ホッブズが規定しているような自然状態のことであると理解することは可能なのであって,それをスピノザの哲学に基づいて規定すると,このようになるというように理解しても,それほど大きな間違いではないと思います。
第四部公理でいわれているように,自然Naturaの中にはそれよりも有力で強大なものが存在しないような個物res singularisはありません。人間も個物ですからこのことが適用されます。したがって各人は単独で存在する限り,自身よりも有力で強大な他者が必ず存在することになります。よってこの状態では各人は他の圧迫から身を守ることは不可能だといえます。なのでスピノザが自然状態をそのような状態と規定することは,スピノザの哲学にも合致しているといえます。
スピノザの哲学は基本的に唯名論を採用しています。これはスピノザがことばと観念ideaは異なるものだと考えているからであって,ことばによって事物を理解することには重きを置かず,事物の十全な観念idea adaequataを形成することに重きを置いているからです。スピノザはことばによって事物を認識するcognoscereことは基本的に表象imaginatioであり,その観念は十全な観念ではなく混乱した観念idea inadaequataであるといいます。したがって神Deusとか悪霊といった語によってそれを表象するimaginariことには意味がありません。神の本性essentiaとは何か,悪霊の本性とは何かを理解するintelligereことが重要なのです。
スピノザは第一部定義六で神を定義していますが,そこでは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成される実体substantiamが神であるとされています。このとき,神というのは命名にすぎません。いい換えれば,あるものが神といわれるならばそれは無限に多くの属性によって本性を構成される実体でなければならないという観点からこう定義されているのではなく,無限に多くの属性によって本性を構成される実体があれば,それをスピノザは神というという観点からの定義Definitioなのです。したがって,無限に多くの属性によって本性を構成される実体が神といわれなければならない積極的な理由があるわけではありません。単にスピノザはそのようにいうというだけです。
よってスピノザは,無限に多くの属性によって本性を構成される実体を悪霊というということもできたわけです。そしてこの場合はスピノザの哲学は汎神論ではなく汎悪霊論であるということになるでしょう。つまり汎神論であろうと汎悪霊論であろうと,スピノザの哲学の内実は変わるわけではありません。ただ神といっているところのものを悪霊といい換えるというだけにすぎないのです。
社会契約説を軽視する,とくに『国家論Tractatus Politicus』にはそういう傾向が強いですから,そこでいわれている自然状態status naturalisが,現に存在したとされる状態であるのか,それとも架空の,いわば理性の有entia rationisのような概念上の状態であるのかということは,そこまで突き詰めて考える必要はないといえます。ですから,僕のように,自然状態は社会契約説によって国家Imperiumの成り立ちを説明するための概念上の状態であって,人類の歴史のうちでそのような状態は存在したことがないと理解するとしても,スピノザの政治論を正しく理解する上で大きな問題を齎すことはないでしょう。
『国家論』の第二章第一五節の冒頭で,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の自然権jus naturaeの下にあるといえるような状態のことを自然状態といった直後で,この自然状態においては各人の自然権は無に等しいという意味のことをスピノザはいっています。したがって,スピノザは自然状態においては,各人が他の圧迫を防ぎ得ないと考えているわけで,この点からみれば,各人が他の圧迫を防ぎ得ない状態のことを自然状態であるとスピノザは規定しているとみることもできるでしょう。この種の自然状態の概念notioは,ホッブズThomas Hobbesがいっている,万人の万人に対する戦争状態としての自然状態に近似しているといえます。実際に吉田も指摘している通り,スピノザは『国家論』において自然状態を規定しているわけではないのですから,その自然状態を,ホッブズが規定しているような自然状態のことであると理解することは可能なのであって,それをスピノザの哲学に基づいて規定すると,このようになるというように理解しても,それほど大きな間違いではないと思います。
第四部公理でいわれているように,自然Naturaの中にはそれよりも有力で強大なものが存在しないような個物res singularisはありません。人間も個物ですからこのことが適用されます。したがって各人は単独で存在する限り,自身よりも有力で強大な他者が必ず存在することになります。よってこの状態では各人は他の圧迫から身を守ることは不可能だといえます。なのでスピノザが自然状態をそのような状態と規定することは,スピノザの哲学にも合致しているといえます。
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