スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-10&乖離

2024-07-06 19:18:32 | ポカと妙手etc
 ⑲-9の第1図で先手の予定は☗6四角だったのですが,読みを入れてみると後手玉が寄らず,負けになるということを理解しました。そこで予定を変更して別の手を指しました。それが40分の考慮で指された☗3一角です。
                                        
 この時点で残り時間は先手が4分で後手が3分。ここから最善の手順が続きます。長いので今回は実戦の手順だけを追います。
 飛車取りなのでこれは☖5三歩と受ける一手。
 ☗4四金と☗6四金のふたつの手が有力ですが☗6四金は☖4六歩☗5三金☖6一王☗2二角成と進むのですが,これは後手が受け切れます。なので☗4四金。
 同じようですがこれは後で☗6四桂と打つことができますので,☖4六歩は後手の負け。なので☖7三飛と引いて5三の地点を受けました。
 これにも先手は☗6四桂。5三の地点を受けておかなければならないので☖6二王はこの一手。先手は☗5四金と銀を取りました。
 ここで後手は反撃に出ます。☖8九飛の王手。合駒するほかないのですが,銀を打ってしまうと後手玉が寄らないので☖4六歩で先手の負けです。なのでここも☗7九桂の一手。
 後手が☖7七歩成と成り捨てるのはタイミングで,もし☗2二角成の後だと☗同馬の余地を与えてしまいます。
 ☗同金は☖8八銀がありますから☗同歩もこの一手。そこで後手は1分将棋なるまで考え,☖8八銀と打っていきました。
 先手もここで1分将棋まで考えます。とはいえ詰めろなのですから指す手は☗8八同金しかありません。後手の☖同飛成もこれ以外にないところ。
                                        
 第2図がこの将棋のクライマックスとなりました。

 理性的に結論付けられる政治理論と,現実的に存在する人間が行う政治的実践の間には乖離があります。國分がいう社会契約の弁証法的展開が,その乖離を埋めることに役立っていることも僕は認めます。具体化は,現に契約pactumが履行されている場合に社会契約が成立しているとみなすのですが,それは逆にいえば,社会契約が履行されなくなったらその社会契約は消滅したという意味です。したがってそこでいわれる社会契約は,絶対的なもの,國分のいい方に倣えば神話的なものではないのであって,履行されたり履行されなかったりすることで,締結と解除を繰り返していくものです。これは政治を実践していくにあたっては根幹をなすべき事柄であって,社会societasがあるいは国家Imperiumが市民Civesに対して絶対的な権限を有することを否定するnegareことに役立つでしょう。
 一方,二重化は,社会契約と別の価値の内面化を個人に託すものですが,その別の価値,たとえば神Deusとの契約を内面化することによって,諸個人は社会に有益な道義心pietasをもつことになります。ここでいう道義心とは,敬虔pietasのことです。すなわちそれはある思想信条を意味するのではなく,その思想信条から発生する行為行動を意味します。この契約によって諸個人は,自然権jus naturaeを全面的に行使することを受動的に抑制することになるのですから,その結果effectusはその諸個人が理性ratioに従っているのと同じことになるでしょう。よって社会はそれにより,諸個人が社会契約を履行している状態になることになるのであって,政治的実践が政治理論に合致していくことになります。
 ただこれはあくまでも,理論と実践との間にある乖離を埋めるのに役立っているということであって,社会契約を概念notioとして用いる政治理論そのものに限界があるというのが僕の考えです。つまり,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においても,スピノザは理論と実践との間にある乖離を埋めることを目指していて,それは成功していると思うのですが,そもそもこの政治理論には無理があるのであって,その無理を埋めるためにスピノザは苦労していると僕はみます。人間が常に理性に従うわけではないということを前提に,政治理論も組み立てられるべきだと僕は考えます。
コメント
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