スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡八十二&徳の規準

2024-07-17 19:25:32 | 哲学
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが最後にスピノザに出した手紙が書簡八十二です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1676年6月23日付でパリから出されました。この時点ではライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもまだパリにいたのではないかと推定されます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスがライプニッツのために,シュラーGeorg Hermann Schullerに対する紹介状を書いたことになっていて,それはたぶんライプニッツがパリを発つ時点でチルンハウスがパリにいたということを意味していると僕は解します。チルンハウスが所持していた『エチカ』の草稿がステノNicola Stenoの手に渡ったのはローマでのことですから,その後でステノがパリを離れたことは間違いないと思われます。
                                        
 チルンハウスはこの書簡ではひとつの質問をしています。これは,どのようにして延長Extensioの概念conceptusから事物の多様性がアプリオリに証明されるのかというものです。チルンハウスはスピノザがそのことについて何か考えをもっているのだけれども,そのことを証明したことがないので,それを知りたいと思ったのです。ただ前もっていっておけば,スピノザはそのような仕方で事物の多様性が証明され得るというようには考えていません。そう考えていたのはデカルトRené Descartesで,しかしデカルトは,そのことは人間が認識できる事柄を超越しているのだとして,なぜそうなるのかということの証明Demonstratioはしていません。スピノザは,事物の多様性を証明するためにはデカルトのような方法methodusでは不可能であるというように考えていたのであって,この質問に関しては,チルンハウスがデカルトの見解opinioとスピノザの見解を混同しているといえそうです。
 チルンハウスはそれを知りたい理由として,ある事物の本性essentiaからはひとつの特質proprietasだけが導出されるからだとしています。つまりひとつの事物の本性から多様な事物が特質として導かれることはあり得ないとチルンハウスは考えているのです。このことをチルンハウスは数学的な観点から説明しています。ある特定の事物の本性から多数の特質が導出されるということが,たとえばどのようなことであるのかということをチルンハウスは知りたかったということになります。

 國分の検討を順序立てて追っていく前に,今回は僕の方から前もって簡単な結論を示しておきます。スピノザの道徳論の第一の規準となるものは何かといえば,それは自分自身です。このことを僕は次のような論理に訴求します。
 第四部定理二二系で,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusであるといわれています。これは一般論としてそういわれていて,後でみるように実際にそう解釈することも可能ですが,一方で一般論として解するのは危険な面を含んでいます。というのも,コナトゥスというのは第三部定理七でいわれているように,各々の事物の現実的本性actualem essentiamを構成するからです。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性が異なる分だけ,AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるといわなければなりません。したがって第四部定理二二系でいわれていることは,Aの徳の第一にして唯一の基礎はAのコナトゥスであり,Bの徳の第一にして唯一の基礎はBのコナトゥスであるというように解しておく方が安全です。AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるので,Aの徳とBの徳もその分だけ異なるということになり,これは結局のところ,現実的に存在する人間の数だけ徳があるということになってしまうのですが,徳の第一にして唯一の基礎がコナトゥスであるといわれている以上,このように解釈しておく方が間違いは起こりにくいでしょう。
 第四部定理二五は,ほかのもののためつまり自分以外のもののためにコナトゥスを発揮することはないといっています。したがって徳の唯一にして第一の基礎であるコナトゥスは,その人のためにのみ発揮されます。すなわちAのコナトゥスはAのためにのみ働くagereコナトゥスであって,BのコナトゥスはBのためにのみ働くコナトゥスです。したがって,Aの徳はAのために働くコナトゥスを第一にして唯一の基礎とするのですから,Aの徳の基礎はA自身であるというのと同じです。このことはBにとっても同様で,現実的に存在するすべての人間に同様であるということになるでしょう。これはつまり,徳の第一にして唯一の基礎は,現実的に存在する人間にとって,その人間自身であるということになるでしょう。
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